建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

善きサマリア人  ルカ10:25~37

週報なしー26

善きサマリア人  ルカ10:25~37 

 「すると見よ、ある律法学者が、イエスを試みるために立ち上がって、言った、『先生、永遠の生命を受け継ぐためには、私は何をなすべきでしょうか』。イエスは彼に答えられた『律法には何と書かれているか。あなたはどう読んでいるか』。すると彼は答えて言った『あなたは、心をつくし魂をつくし力をつくし思いをつくしてあなたの神、主を愛さなければならない(申命6:5)。また自分自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない(レビ19:18)』イエスは彼に言われた『あなたは正しく答えた。それを行いなさい。そうすればあなたは生きるであろう』。
 しかし彼は自分を正当化しようと欲して、イエスに言った『では誰が私の隣人なのですか』。イエスはこれを受けて言われた『ある人がエルサレムからエリコに下って、強盗に襲われた、強盗はその人の服をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにしたまま去った。たまたまある祭司がその道を下ってきて、その人を見て、通り過ぎた。同じくレヴィ人がその場所に来たが、その人を見て通り過ぎた。ところがあるサマリア人が旅をしてそこにやってきてその人をみると、憐れに思った。そしてその人に近寄って傷の上に油とぶどう酒を注ぎ、包帯して自分のろばに乗せ宿屋に連れていき、その人を介抱した。そして翌日2デナリを出して宿の主人に渡して言った《その人を介抱してください。もっと費用がかかったら、もどってきた時に、支払います》。この三人のうちで誰が、強盗に襲われた人の隣人になったと、あなたは思うか』。彼は答えた『その人に憐れみを示した人です』。イエスは彼に言われた『行って、あなたも同じようにしなさい』」。
 この箇所は、ルカ伝の特殊資料に基づくもので、15章の放蕩息子の譬と共に、よく知られている。一読してすぐに話の内容が理解できる、と映るが決してそうではない。
 30節以下の譬から取り上げたい。30節のエルサレムからエリコへの道は寂しい下りの坂で27キロ。現在でも強盗の多いことろだという。ユダヤ人である人がここを通ると強盗に襲われて、着物をはぎ取られ、なぐられ、半殺しの日にあった。
 31~32節。たまたまユダヤ人の祭司が通りかかて、負傷したその人を見たが、道の向こう側を通って行ってしまった。同じようにレビ人(神殿の祭儀にたずさわる人)もその人を避けるように行ってしまった。
 33節以下。こんどは旅のサマリア人がやってきた。サマリアは北王国イスラエルの都があったところで、減亡後(前722)アッシリアに編入され、他の民族との雑婚によって、宗教的も異教化した。エルサレム神殿再建後、ユダヤ人は彼らを神殿に入れなかったのでサマリアゲリジム山に独自の神殿を立てた。ヘロデ大王の時、大王の支配下に入るが、彼らとユダヤ人は反目しあい、交流はなかった。大王の死後はローマの支配下にあった。サマリアユダヤとガリラヤの間に位置するが、ユダヤ人はガリラヤ~ユダヤの旅の時にも、サマリア通過を避けた。また前9年ころサマリア人過越の祭りにエルサレム神殿の庭に死人の骨をばらまいて神殿冒読をして以来、ユダヤ人の彼らへの反感・嫌惡は一段と高まった。イエスがなしたサマリアのスカルの井戸でのサマリの女性への説教とこのサマリア人の醫は、それゆえ特別に注目される。初代の教会の伝道では最初にユダヤの枠を超えたのは、使徒ピリポによるサマリア伝道であった。
 旅のサマリア人はその人を「不憫に思って」介抱した。消毒用にぶどう酒を注ぎ、痛みどめに油を傷にそそいだ。そして驢馬にのせて宿屋に運んだのだ。さらに宿の主人にデナリ銀貨を二つ出して介抱を依頼した、33~35節。
 3人のうち誰が強盗にあった人の隣人になったと、あなたは考えるか。その人に親切にした人です、36~37節。これが結びとなっている。
 「愛に欠けたユダヤ人の祭司とレビ人」と「愛に満ちたサマリア人」の対比ははっきり浮かびあがってくるが、愛の戒めには、民族的、宗教的限界をも乗り越えるべきものだ、というのが、ポイントなのだろうか。エレミアスの「イエスの譬」の立場はこれに近い。
 眼目は最初の部分、25~28節におけるイエスと律法学者との、律法解釈をめぐるやりとり「律法解釈」である。律法学者が「私の隣人とは誰か」を問うたが、29節、半殺しの人を見捨てた、祭司やレビ人にも、彼らの律法解釈があったろう。「ラビの教えによれば、いかなるイスラエル人も、ユダヤ人でない人から慈悲や愛の行為をうけてはならないとの戒め」(ユンゲル「パウロとイエス」)を守っていた。しかし瀕死の同胞を見殺しにするような「ラビの戒め」律法解釈には、決定的な何かが欠けている。死に直面した者を見捨てる状況では、律法は律法であることをやめている。正統的ユダヤ人、祭司やレビ人をして怪我人を助ける行為に促さない律法はすでに無力であり死んだものである。律法は神の義のみならず神の愛を根幹としている。イエスの説いた「神の国の宣教」は、ユダヤ人が墨守していた律法の再解釈を余儀なくした。イエスによれば、律法は「神の愛」という視点から新たに解釈されなければならない。神の国の到来は神の愛の到来であって、神の愛は、傷ついた旅人を救う、隣人となれとの神の愛の出来事として到来する。「死に直面したユダヤ人の旅人にサマリア人が介抱のために近づいたように、神の国はあなたに近くある」(ユンゲル)。この譬においては、聴衆・読者は自分をこのサマリア人と同一化する傾向があるが、やはり登場人物のうちで誰に自己同一化すべきかを考えると、あの半殺しの目にあったユダヤ人に自分を重ねるべきであろう。この怪我人に近づいたサマリア人こそ、イエスと見るべきだ。サマリア人が一番愛・慈悲深さを必要としている怪我入に近づいたように、イエスもまた神の愛・慈悲深さを必要としている者、私たちに近づかれる、これが神の国の到来であった。この話は神の愛の到来を告げる譬である。