建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

日清、日露戦争に対するキリスト者の態度(1) イザヤ1:4~9

週報なしー48

日清、日露戦争に対するキリスト者の態度(1) イザヤ1:4~9

 1894(明治37)年8月、 日本は朝鮮の利権・支配権をめぐって日清戦争を起したが、教会の大勢がこの戦争においては「戦争協力」の役割を果した。
 戦争が勃発した直後の8月、本多庸一(1848~1912、元津軽藩士、自由民権運動に参加、明治期のメソジスト教会の指導者、のちに青山学院院長)らが中心になって束京で「清韓キリスト教同志会」を結成した。その会の決議にはこうある「われら天父(神)を信じ世界を兄弟となすもの…該事件(この戦争)全般の進行をして、天意(神の摂理)に適合せしめんことを祈るべし。かつ日本国上下の思想および軍国の機務運動の上特に啓誘を加えて仁義と知勇に富ましめ真にその天職を尽くさんことを協力懇祷すべきこと」「宣戦の詔勅は発せられたり。ことの成功を国民の忠勇武に訴えられたり。日本臣民たるものいずくんぞ感奮尽砕せざるをえんや。…われら臣民たるもの各その分を尽くしもって上意を賛し国家に報ずべきこと勿論なり」(キリスト教新聞、1894・明治27、8・10 土肥、前掲書)。
 この文書はキリスト者の戦争協力への決断と行動を物語る。「キリスト教徒は国賊視されるに手をやいた矢先ではあり、義勇奉公に遅れは取らじと、大いに軍隊慰間などにつとめた」(「キリスト友会五〇年史」阿部知二良心的兵役拒否の思想」1969)。キリスト教会は天皇制にも勅語にも忠実で「忠君愛国」を実践することを戦争協力によって「証明しよう」としたのだ。この同志会にはキリスト教の多くの指導者が委員として参加した、植村、井深、宮川経輝、山路愛山などである。実際本多、宮川経輝らは、翌95(明治28)年2月、大本営の承認をえて、朝鮮、満州の戦地の軍隊慰問をした。さらに、キリスト教界あげて戦時日的に協力していった。東京(キリスト教同志会)大阪(キリスト教報国義団)、広島(キリスト教徒同盟戦時軍人慰労会)、群馬、神戸、京都、名古屋などに組織がつくられ、パンフレットによる戦意高揚、軍人遺族の慰安、救恤活動をした。注日すべきことに、この戦争協力の仕方はその後の日露戦争日中戦争、太平洋戦争の雛型となった。
 木下尚江(1869~1937。24才の時、松本メソジスト教会で受洗。弁護士、新聞記者キリスト教社会主義者、評論家、廃娼運動、足尾鉱毒事件、普通選挙運動指導、平民新聞直言などで幸徳秋水堺利彦らと非戦運動をした、小説「火の柱」1904など)は当時松本にあって新聞記者をしていたが、次のような出来事を報告している。
 「日清戦争の最中、戦争賛成の弁明のため、東京から牧師二人(「同志会」のメンバー松村介石、 三並良牧師)が巡回してきて、一夜芝居小屋で演説会が開かれた時、二階の傍聴席から君は『ノン(否)』と大喝一声して満場を驚かした」(「荒野」1909・明治42年、ここでの「君」は従兄の百瀬興政という設定になっているが木下自身のことと解釈されている)。この日清戦争におけるキリスト者の動きも木下を失望させた。
 「間もなく日清戦争が開かれた。予は戦争ということはキリスト教の反対するものだということを毫も疑わなかった。しかるに戦争の始まると共に、東京に在る知名のキリスト教徒は全国を遊説して『正義の戦争』を鼓舞し始めた。予は重ね重ね驚いたが、これは畢境彼らが真正にキリストの福音を会得しないのか、左なくば『非国体』の攻撃を逃れようとするための挙動であったに相違ない」(「懺悔」1906・明治39年)。
 柏木義円主戦論であった(「戦争と平和」「再び戦争と平和を論じ…」「明治二八年を迎ふ」上毛教界月報、1894・明治27年、8月、9月、明治28年1月、「柏木義円集」第一巻、1970)。「支那人種のいかに猾詐卑劣なる毒焔を世界に漲らす勢力なるやを察すべきなり。…これを膺懲してその驕傲を挫き、反省謙虚ならしむるは、大いに道義の勢力をわが東洋に発揮する所以にして…。朝鮮の革新は朝鮮志士の志にして、またその大君主殿下の叡旨なり。しかして暴威と請計とをもってこれを圧抑するものは、これかの清国にあらずや。この勢力を破壊するにあらざれば真成の平和は決して東洋に来るべからず…」(「再び戦争と平和を論じて…」)。
 内村鑑三も、日清戦争では主戦論であった(「日清戦争の義」1894・明治27年9月。内村鑑三「非戦論」1990)。内村はこの論文で、さまざまな「義戦」の例をあげ「われら信ず日清戦争はわれらにとりては実に義戦なりと。その義たる法律的にのみ義たるにあらず、倫理的にまたしかり」と主張した。続けて、日清戦争は日本の「利欲」によるものではない。「世界の最大退歩国」清国「支那は朝鮮の不能を計り、これをして長く依頼国たらしめんことを欲せり。…これ自由を愛し人権尊重するものの一日も忍びうべき所にあらず。われらの目的は支那を警醒するにあり…われらは永久平和のために戦うものなり。天よこの義戦にたおるるわが同胞をあわれめよ」と述べた。ーーまたこの論文のなかで内村は、ハンガリー愛国者ルイ・コスートの言葉「一九世紀の二大英雄はドイツのビスマルク公と日本皇帝陛下なり」を引用し「彼(コスート)をしてこの言葉を発せしめしものは、われらの尊載する皇帝がその臣下に施せし偉大の事業にとどまらずして、アジア億兆がまさにその余沢に浴せんとしつつあればなり」と語った。不敬事件から三年後、内村は天皇を英雄と祭り上げて讃美し日清戦争、すなわち天皇の「偉大の事業」をアジア諸国も欲していると正当化したのだ。
 日清戦争は三万三千の戦死者を出したがその遺族は十万人を超える。戦死者はほとんど兵役による。木下尚江は、帝国憲法第二〇条の「兵役の義務」(血税)が一度戦争が起るとどれほど国民の生活を苦しめたかを述べている。主人公篠田長二が故郷の秩父にもどった時、近所の老人が彼に次のように語った。
 「十年前の支那の戦争で、村から取られた兵隊が一人死にましたが、ヤア村の誉れになるなんて鎮守の杜に大きな石碑建てて、役人など大勢きて、大金使って大騒ぎして、お祭りを行いましたが、一人息子に死なれた年老いた両親は、稼ぎ人がなくなったので、地主から田地を取り上げられる、税を納めねいので、役場からありもせぬ家財を売り払われる抵当にいれた家は金主から逐いたてられる。到頭村で建ててくれた息子の石碑の横で夫婦が首を総つてしまいましたよ」(「火の柱」1904・明治37年)。日清戦争が終ってしばらくして書かれた木下の言葉を除くと、日清戦争に反対するキリスト者の声は皆無であった。この点を後の私たちはよくよくかみしめなければならない。
 日清戦争の勝利で、台湾を獲得し朝鮮の独占的利権獲得、巨額の賠償金(二億両)を得た日本は、 西欧の強国なみに中国侵略に乗り出すが、同時にアジア地域で西欧の強国との衝突をも引き起こした。特に「三国干渉」(95年4月)によって、ロシア、ドイツ、フランスは、日清の講和条約で決定されていた、遼東半島の日本割譲に干渉し、それを日本に放棄させた。日本とロシア帝国との中国での利権対立、敵対関係があからさまになり、ロシアは明治31年、旅順、大連の長期租借、長春、旅順間の鉄道敷設権を得て、鉄道をシベリア鉄道をつなげて、満州経営の基盤を強化した。
 日露戦争(1904~05・明治37~38年)が起った。日露戦争に対するキリスト者の立場は、大きく分けて二つあった。
 一つは、むろん日清戦争以来の「主戦論」で、本多庸一は会長をしていたキリスト教青年同盟と共にここでも軍隊慰問、国民の士気鼓舞、遺族の救恤などの活動を開始し、小崎弘道が会長であった福音同盟会なども、この活動に参加し、大多数の国民と共に戦争勝利のためにつくした。
 1904・明治37年5月、芝公園の会館で「大日本宗教家大会」が開催され、神道系仏教の諸代表と、キリスト教の本多庸一、小崎弘道、海老名弾正、井深梶之助が参加した。そこでは日露戦争を「日本帝国の安全と東洋の永遠の平和を計り、世界の人道のために起れるもの」との宣言を出した。席上、小崎弘道(1856~1938、組合教会の指導者、YMCA会長、同志社社長、「六合雑誌」刊行、著書「政教新論」1886など)は次のように語った。
 「この度の戦争は、人種の戦争でも宗教の戦争でもなく 一六世紀文明と二〇世紀の文明との戦争と云いうる。露国の代表するのは一六世紀文明、我国の代表するのは二〇世紀の文明である。その理由は我国は自由貿易、門戸開放主義であるのに、彼は保護貿易、門戸閉鎖主義である。政治的においては、彼は専制政治であるが我は立憲政体で自由民権を重んじる憲法政治である。宗教の方面で云えば、彼には信教の自由は皆無で人民は国教外の他宗教を信奉することはできないのであるが、我国にては、憲法上信教の自由を保証され、いかなる宗教でも国法を遵守する以上、これを信ずることは自由である。…国家に尽くす一段においては、いかなる宗教の人々も一致団結し一弾丸となって尽くす所なければならぬ。今日ここに神道、仏教、キリスト教その他各派の人々が集まっているが、国家に対する責任は皆同一である」(比屋根安定「日本近世キリスト教人物史」、中濃教篤「近代日本の宗教と政治」1968)。
 植村正久も主戦論の立場をとった「世には乱りに戦争を嫌い絶対的に戦争を否認するの者あり。彼らはキリスト山上の垂訓を辞柄とし楯としていわく、見よキリストは悪に敵することなかれ、人汝の右の頬を打たば左の頬をもこれに向けよと教えたまいしにあらずやキリストは決して戦争を認められしことなしと。この派に属する論者中にて最も著しきはトルストイ及びクェーカ一宗これなり。しかれども試みに聖経(聖書)をひもときて見よ、イエスは自ら決して自己山上の垂訓の一字一句通りに行いたまわざりしなり。ヨハネ18:22、23を見るに、イエスは(大祭司の)一人の下吏掌にて自己を打ちしに対して『もし我語りこと善らずば、その善らざるを証せよ。もし善らば何ぞ我を打つや』と詰問叱咤したまいたり。イエスは決して右の頬を打たれしに際しまた左の頬をも廻らしたまわざりしなり。また見よ汝らさらに誓うなかれとは山上の垂訓にあらずや。しかれどもイエスは法廷に立ち誓て自己の神の子たることを公言せられたり。…イエスこのごとく行ないて山上の垂訓の意味を教えたまいしにかかわらずトルストイと称する豪傑出てイエスの実例を否認し絶対的山上垂訓服従を説けり。彼らはすでにこの点において劈頭第一の誤りに陥れり。なお戦争は一国に及ぼす害甚大なるをもって容易にこれをなすべきものにあらざるなり。しかれども自己の発達を妨げ存在を危うくする者に対しては憤然これを懲罰して可なり。今もし狂漢ありて自身を殺さんとする時に当り、これに抵抗せざる者あらんや。あるいは石を採りステッキを打ち振りこれを防ぐべし。これ何人拒むあたわざるところなり。このゆえをもて一国内においてその国あらざるをもてすべてのことを教会的のごとき自由放任の方法を採ることをえざるなり」(1903・明治36年10月、講演「キリスト者と戦争」、「植村正久とその時代」)。植村は当時他に「時局小観」「平和の恢復」などの論文を書いたが省略。
 海老名弾正(1856~1937、組合教会の指導者、同志社総長、神道的キリス教、雄弁をもって知られる)も国民の士気、愛国心の鼓舞につとめた。海老名は「主戦論」の代表的存在であったが、当時、ある説教の中にはこう語った。
 「優強なる軍隊のあるところに神います、とある人が嘲弄的に放った言葉であるが、私は真面目なる真理があると思う。今日日本とロシアとが互いに相対抗して戦いを交えている。…われわれの多年磨きに磨ききた知力は決して彼(ロシア に劣らない。しかのみならず、その精神力道義力においても、報国奉公の精神、忠君愛国の熱情において、彼にぬきんで、かつ人道を重んじ、公道に準拠しこれがために戦い、これによってその真をえたものならば、神はたしかにわれらの方にござる。…われわれに果たしてその目的を遂行し初一念を貫くの勇気がどれだけあるか、永き困難や一時の頓挫に堪える忍耐力がどれだけあるか、もしこれにおいてスラブ民族に敵することができなければ、あるいは敗北を取るかもしれぬ。今が双方の宗教心の試し時だ、いずれの民族が多く神を味方としておるか、語を換えて言えば、いずれに多く神が内在してござるか、神の神たるところがいずれに多く実現せられておるかは、この戦争によって試される。…今日は人々が各々その至誠に変えるべき時である、至誠の根本たる神に立ち返り、その霊能の力によって各自の生命を国家に献げ、その愛するもの(者)の生命を国家に献げるならば、わが日本国民はこのたびの戦争によって真の大国民となることができる」(「海老名弾正説教集」1973、飯沼二郎「天皇制とキリスト者」1991)。この説教は、戦時下の「忠君愛国」は愛する家族の生命を国家に献げ、戦場に送り出すことにある、と訴えて軍国主義的説教の典型であろう。
 1905・明治38年4月、パリで開かれた「世界学生キリスト教連盟五〇周年大会」に本多庸一、 井深梶之助(1854~1940。植村らと同じ日本キリスト教会の指導者のち明治学院総理)を教界は派遣し、日本の戦争の正当性を欧米で説かせた。二人は同時に政府より義戦宣伝民間使節に任じられた。キリスト教界の国策奉仕の姿勢はこのような面にも現われた。
 木下尚江は特に日露戦争に対するキリスト者の協力を批判した。
 「政府は仏教各宗の管長に向って義勇奉公の命令を下せり。彼ら管長らは相きそいてその末寺などに訓諭を発し、あえて人後に落ちざらんことを務む。…政治上の主権は大なるがごとしといえども、とうてい狭少なる一地域に局限せらる。ゆえにその戦争を宣するや真理のためと言わざるなり。正義のためと言わざるなり。その根拠常に一国の利害にあり。一国の利害のゆえをもって殺伐侵掠す。…人類平等同胞博愛の大義を旨とする宗教家が国家的主権者の利害的主戦論を権威として宣伝慫慂するがごとき、あにその本分を忘却したるものあらずとせんや。…しかれどもさらにはなはだしきものあり。これをわが国におけるキリスト(耶蘇)新教諸派の心事となす。開戦の報せに接していち早くも、征露演説会なるものを開きたるは彼らなり。軍隊布教使を送らんとして齷齪たるものは彼らなり。日本軍隊の上に天神の特恩あるべく祈祷会を挙行せんと準備するものは彼らなり。あえて問う、彼ら平生にありて果して何事かなせる。
 彼ら提言すらく、我は十字架を負いて天国を地上に建設するものなり。しかれどもこれ断じて彼らの空言なり。みよ政治的罪業、社会的惡事は日にますます甚しく眼前に展開せられつつあるにあらずや。しかれどもわれらはいまだかつて彼らキリスト教徒がこれがために一片の義憤だに発揮したることを見ざるなり。ひとたび戦争開かると聞くにおよんで、かく狂奔する所以のものはすなわち何ぞや。愛国の情か、否、正義の念か否、ただこれ国民の戦争狂に付和雷同する浮薄の偽善のみ。ああ汝らが日夜空しき讃美を捧ぐるキリストは実に汝らがごとき浮薄の偽善者のために十字架の恥辱を受けたまいしや。試みに新約聖書をひもといて虚心平気にキリストの説教を聞け。何人かその平和の大精神に感激せざらんや。しかれども今のキリスト教徒なるものは強いてキリストの説教の中より主戦論に利益ある正義とを主張せんと欲しなば、何ぞ速やかにキリスト教を棄て、マホメット教に転ぜらる。 しかれども今日のキリスト教徒はキリスト教の精神によりて積極的に戦争を主張するとは言わざるなり。…要はキリスト教必ずしも絶対的に戦争に反対するものにも弁疏するにすぎず。情操の不貞にして、理義の曖昧なる精神の萎縮しつくして、一に凡俗の劣情に苟合するのほか、また余念なき、真に憎むべし…われらは日本人の巧戦(好戦)者たることを疑わず。しかれどもこれむしろ恥づべきことなり。日本人より≪巧戦者≫を除去せよ、われらははたして何物の残留すべきやを気づかわざるをえず」(1904・明治37年2月28日、平民新聞「戦争の影」木下尚江著作集、第二巻、1968)。柏木義円内村鑑三らの非戦論は次回。