建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

日露戦争とキリスト者(二)   マタイ26:52

週報なしー47

日露戦争キリスト者(二)   マタイ26:52 

 他方、もう一つの立場、 日露戦争に対するキリスト教の「非戦論 もごく少数であったが影響力をもった。日清戦争主戦論の立場をとった柏木義円内村鑑三。それに前述の木下尚江.である。
 柏木義円(1860~1938)は、越後の浄土真宗の寺に生まれ幼くして父を失った同志社に学び二五才の時、群馬の組合教会に属す安中教会で海老名弾正から洗礼を受け、再び同志社に入り、新島襄、海老名弾正、湯浅治郎らの強い影響を受けた。その後、同志社中学の教員となり、1897(明治30)年、安中教会の牧師となり、翌98年に「上毛教界月報」を出し(「柏木義円集」全二巻、1970)、1936(昭和11)年まで38年間(560号)にわたって健筆をふるった(月報出版には湯浅治郎らが援助した)特に、同じ組合教会の渡瀬常吉の朝鮮伝道をめぐる批判・論争、井上哲次郎との「勅語」をめぐる論争、日露戦争への非戦論の展開、満州事変における軍部批判などはよく知られている。
 柏木は次のように語った、「強大な国たらんか、それとも幸福の国たらんか」、柏木によれば、にわかに国費を膨張せしめたのは、軍備拡張「殺人の機関である十三個師団二五万トンの軍艦である」、「わが立国の方針は国民の幸福をはかるよりもむしろ国家の強大をはかるにありて、日本人もやはり国民の自由と幸福を犠牲にして強大の国という虚栄をとらんとする…強大な国となるには弱いものはむしろ那魔である、孤児や老人などは早くくたばったほうがよいということになってくる。…今はわが国の国是を根本より確立するときである。威張って幅のきく強国とならんと欲するか、それとも幸福平和なる国とならんと欲するか。虚栄か実益か、国民全体が幸福を享受するの国としようと思うならば、軍備によって強国とならんとするがらにない野心を捨てなければならない。…われらは断じていう、わが国は国家の強大よりも国民の幸福をはかるの国とならざるべからず、露国たらんとよりはスイス(高福祉の国の例)たらざるべからず。…わが国も将来は世界に感謝せらるるの国となるの方針をとらんければならない。自由なく幸福なき強国か、自由ある幸福な(兵力上の)弱国か、他国に迷惑がらるる強国か、世界に永く感謝せらるる弱国か、強国主義か弱国主義か今や国是を決するときである」(「国是決定の危機」1903明治36年10月、「上毛教界月報」、「柏木義円集」第一巻、1970)
 日露戦争開始後、柏木は、語った「人を強いて兵役につかしむるは、これ殺人の罪悪を人に強ゆるものなり。…開戦ついにやむをえずと云う、これ大日本主義よりわり出して云うのみ。柔和なる小日本主義より見れば、ごう(毫)も開戦やむをあざるの理由見ざるなり」(「柔和なる人、柔和なる国」、1904年3月)「戦争は単に殺人という一点より見るも、地震津波噴火疫病よりも残酷悲惨なり。…莫大な軍費と増税はまさに国民の生活を圧追せんとして、不景気は徐々として肉薄し、ついに貧者の職業を奪って餓に泣かしむるにいたるべき、特に戦地人民の悲惨は言うも堪えざるものあり。戦争の惨禍と罪悪とは天下なにものをもってするも、決して償うことあたわざるなり。かつわれらの見地より見れば、今回の戦争は必ずしもやむをえざるものにあわず、むしろやむをえるものなり。ゆえにわれらはあえて今回の戦争を否認するものなり」。
 そして柏木は、今回の戦争で特別に悲惨であるのは「予備役の後備兵の召集」であって熊本県のある人が召集されることになり、その通知を受けた妻は、ショック死し、やむなく夫は二人の子を連れて役場に出頭したが、面倒はみられないと断られて、二人の子を刺し殺した。あるいは、一人の脱走兵が衆人環視の前で銃殺された、脱走の理由はその兵には老父母、妻と三人の子がいて彼は唯一の稼ぎ人で、彼なくしては残された六人は飢餓の窮地におちる事情にあった。などの「平民新聞」(幸徳秋水堺利彦らが1903・明治36年11月発刊)の記事を紹介して、戦争の悲惨の実態を訴えた(「戦争に対するわれらの態度」1904年3月)。ちなみに日清戦争戦没者は三万八〇〇余名、 この戦争での戦没者は八万八千余名にのぼり二つの戦争で遺族は数十万人に達した。戦死者に対する政府の「遺族扶助料」をめぐって、老父母と嫁・子供たちが争い、老父母が嫁を離緑して扶助料(本来寡婦に与えられる)を奪うというトラブルが各地で起きた。働き手を失った老父母の悲しい抵抗である(木下尚江)。
 内村鑑三の非戦論。内村は1903(明治36)年6月黒岩涙香の「万朝報」に「戦争廃止論」 を書いて非戦論を主張した(内村鑑三選集二「非戦論」1900)。これは選集では二ページの短いものである。
 「余は日露非開戦論者であるばかりでない、戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである、そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して、個人も国家も永久に利益を得ようはずはない。世には戦争の利益を説く者がある。余も一時はかかる愚を唱えた者である。しかしながら、今に至ってその愚の極なりしを表白する。…戦争の利益は強盗の利益である。…(日清戦争において)二億の富と一万(三千余)の生命を消費して、日本国が得しものは何であるか。…その目的たりし朝鮮の独立はかえって弱められ、支那分割の端緒は開かれ、日本国民の負担は非常に増加されその道德は非常に堕落し…戦争廃止論は今や文明国の識者の世論となりつつある。そうして戦争廃止論のあがらざる国は、未開国であり、野蛮国である。…」。
 黒岩涙香の万朝報は、この論文の四ヵ月後の10月に主戦論に転向したので、幸德秋水、堺利彦、 また内村も退社し、内村は「聖書の研究」(1900年9月創刊)で非戦論を展開し続けた。その中に「余が非戦論者となりし由来」(1904年9月)がある。その論文で内村は非戦論の根拠を四つあげた。
 第一に、特に新約聖書。「新約聖書のこの句あの語を個々に捉えないで、その全体の精神を汲み取りまして、戦争はたとえ国際問題間のものにでありとするも、これを正しいものとしては見ることができなくなりました。十字架の福音がある場合においては戦争をよしとする私にはどうしても思われなくなりました」。ーー第二に、内村自身の体験である。彼は不敬事件で人々の激烈な攻撃にあったが「その時ある友人の勧告に従いまして、私は我慢して無抵抗主義をとりました結果、私は大いに心の平和を得、それと同時に多くの新しい友人の起り来たりて私を助けてくれるのを実験(体験)しました。…私はその時に争關のいかに愚にしていかに醜きものであるかをしみじみ実験しました。…ロマ書一二章のパウロの教訓(おそらく12章19節以下「自分で復警しないで、むしろ(神の)怒りにまかせなさい…悪に負けないで、善によって悪に勝ちなさい」のこと)をさとりましたのは実にその時でありました。…私はそれによりてすべての争聞.の愚にしてかつ醜なるをさとりました」。
 第三に「過去一〇年間の世界歴史」、日清戦争米西戦争(1899年、アメリカ対フィリピン)におけるアメリカの政策に落胆した。「自由の国アメリカは今や明白なる圧政国とならんとしつつあります」(第四については省略)。   
 欧米では絶対平和主義者の「良心的兵役拒否者」はその者がクェーカー、メノナイトナザレン派である証明があれば、通常代替労働(食料生産)や多額の金銭負担(500ドル、300万円?)によって兵役を免除された(1860年代、アメリカ)。しかし、日本では1872・明治6年に徴兵制がしかれ、国民皆兵の原則がとられた(1889・明治22年)ーー内村の非戦論において「兵役」を現実にどうするかが、彼の思想に共鳴した人々の間で問題化した。
 斉藤宗次郎は26才ぐらいの、岩手の花巻の教員で、内村の万朝報の記事や「聖書の研究」に感動して信仰に入った。斉藤は非戦論の立場に立ち、徴兵の拒否と納税拒否をしたいが、と内村に手紙で相談してきた(1903年12月)。これに対する内村の発言はまことに歯切れが悪い(斉藤宗次郎「花巻非戦論事件における内村鑑三先生の教訓」1962、阿部知二、前掲書)。内村は、斉藤にこうさとした、第一に、兵役、納税の拒否は、自分自身の不運をまねき、第二に家族、同志に迷惑をかけ、愛の精神に欠けることになる。
 第三に聖書の真意を曲解することになる。軍備撤廃や非戦論はむろん重要であるが、真の平和は人間の議論、運動によって到来するもではなく、キリストの再臨によってのみ、望みうる。イエスは無抵抗を教え、それによって勝利を得た。今日においてもそうでなければならない、と。斉藤はこの説得に納得したという。
 先に言及したように、日本には「良心的兵役拒否」の思想も法的保護もなかったので、徴兵制という天皇制の壁に内村も斉藤もはねかえされた感じがある。斉藤の他に、海軍中尉太田一三男も非戦論者で海軍をやめるべきかを内村に相談した。内村が1904(明治37)年10月に書いた「非戦論者の戦死」(「聖書の研究」)は、このような文脈をもっていた。「国民の義務としてわれらにも兵役を命ずるにいたらんか、その時にはわれらはその命令に従うべきである。…すべての罪悪は善行をもってのみ消滅することのできるものであれば、戦争も多くの非戦論者の無残なる戦死をもってのみついに廃止することのできるものである。…彼も敵愾心と称する罪念の犠牲となりて、敵弾の的となりて戦場に彼の平和の生涯を終るにおよんで、ここに始めて人類の罪悪の一部分は贖われ、終局の世界の平和はそれだけこの世に近づけられるのである。これすなわちカルバリ山における十字架の処罰の一種であって、…ゆけよ、両国の平和主義者よ…戦争の犠牲となりてたおれよ。戦うとも敵を憎むなかれ、そは敵なるものは今は汝に無ければなり。ただ汝の死の贖罪の死たらんことを願えよ。人は汝を死においやりしも、神は天にありて汝を待ちつつあり。その処に、敵人とも手を握れよ。ただ死に至るまで平和の祈願を汝の口より絶つなかれ。…」。内村の非戦論は「良心的兵役拒否」とは結びつかず、むしろ無抵抗に徹して「徴兵」の義務に従って平和主義者の兵士となって、戰場で無残なる戦死をとげることで「贖罪」をなせ、と主張した。西欧の非戦論者には「良心的兵役拒否」をいう受皿があって主義を貫くことができたが、内村の当時の日本にはこの「受皿」は存在しなかった。それゆえか、内村の非戦論はどこかで、一貫性に欠け非現実的に聞こえる。ここには内村の不敬事件以来の「臣民の義務」への神経過敏、天皇制への「おびえ」のようなものがうかがえる。
 内村は知らなかったが、この時期「良心的兵役拒否」の実践者も例外的に存在した。福島県会津の矢部喜好である(田村貞一「矢部喜好の生握」1967、阿部知二、前掲書)
 矢部は1902年、18才で会津の福音教会で洗礼を受けた。戰雲急を告げる中で、矢部は教会の仲間と共に街頭に出て戦争反対を叫び、非国民との罵声を浴び石を投げられもした。1904年(20才)、会津で伝道じていた時、補充兵として入隊を命じられた。その前夜矢部は連隊長に面会し、自分は国民としては徴兵を忌避しないが、神の僕として敵兵を殺すことができない、それゆえ軍紀のためならばこの場で死をたまわりたい、と申し出た。その結果裁判所に送られ軽禁固二ヵ月の判決をうけた。出獄後、連隊区司令部から呼び出され、矢部自身も、家族、教会の人も、銃殺を覚悟した。しかし司令部で、敵と戦うことは主義として相いれないとしても傷病兵の看護だったらすすんでなすべきことではないか、と説得されて、看護卒補充として入隊し講和までつとめた。「看護卒」の務めはアメリカなどの「良心的兵役拒否者」における「代替業務」に該当すると解釈できる。矢部は後にアメリカに渡り苦学して神学部に学び、帰国して志賀県で伝道、社会事業にたずなわって、五一才でなくなった(1936年)。
 さて日清戦争の結果は、日本に膨大な賠償金をもたらした。しかし日露戦争は、朝鮮に対する日本の独占的利権を認める、遼東半島の租借、ハルピン・旅順の束支鉄道の日本への讓渡、南樺太の讓渡、を実現したが、賠償金は全く支払われなかった(1905・明治38年9月、ポーツマス講和条約)。国民は戦争時の軍備費のため、また外国からの戰時借款返済のための「重税(六千万円の增税)が戦後もつづくと知つて、ポーツマス講和条約を「屈辱的」と呼び、怒りに怒って、その批判が桂内閣、小室寿太郎全権大使らに向けられた。9月2日、日比谷公園講和条約破棄、戦争継続を決議する全国大会が開かれると、群衆は国民新聞社を破壊し、内務大臣官邸、警察署、交番などを焼討にし、取締の警官と街頭で乱闘する事件が起こった、「日比谷焼討事件」である 騒乱は関東から全国に広がり東京に戒厳令がしかれた(11月末まで)。東京では騒乱の中で、平和回復に積極的であったキリスト教会13が焼かれた(下谷教会、車坂メソジスト、芝崎町、駒形浅草聖ヨハネ教会など)、当時行われた「平民新聞の伝道行商」(無神論キリスト教社会主義の共存)の小田頼造、山口弧剣によれば、その土地でまず訪れるのは教会が多く、静岡県での例では江尻町のメソジスト教会で吉田牧師、相良町の原野牧師、掛川教会、浜松メソジストの白石喜之助牧師は社会主義者、戦争反対者として当時活躍した人でそこでは談話会をひらいた。気賀町のキリスト者外山氏、豊橋メソジストの市来牧師など中央での教会指導者とは違って、厭戦反戦の気分がそうとうあったようだ(「近代日本とキリスト教」明治篇、隅谷三喜男発言、1957年)。この重税反対の全国的盛り上がりが、大正期まで続き、大正デモクラシーの母体となった(松尾尊よし「大正デモクラシー」1994)。
 ところで、日本が大戦争を起こすのは、25年ほど後の1931・昭和6年の満州事変すなわち一五年戦争の開始時点である。その前に1910・明治43年、日韓併合があり、教会は初めて「植民地伝道」を体験することになる。