建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅰ.囚われ人の希望-7 現在と将来 期待の欺き

現在と将来 期待の欺き
 フランクルは「強制収容所における囚人の存在は《期限のない仮りの状態》と定義される」とみる。これとよく似た心理状態にあるのが、失業者である。フランクルラテン語のフィニス(finis)という語が「終り」と「目的」との二つの意味をもっことに着目し「自分の《仮の存在形式》の《終り》を見極めることのできない人間は、《目的》に向って生きることもできない」「将来を失うと共に、囚人はその拠り所を失い、内面的に崩壊し身体的にも心理的にも駄目になってしまう」と語る。
 例えば、次のクリスマスには釈放されて帰郷できるという、根拠薄弱な素朴な希望をいだいた囚人たちが、それが実現しなかったことによって《希望から失望へと急激に落ち込んで》将来を喪失して生命力が極端にか細くなり、多数の囚人が死んだという。
 ゴルヴィッツアーは、 囚われ人が帰国のデマに本能的に振り回される性格を備えているので、その種のデマから身を守る技術を身につけることが不可欠であると述べた。
 「希望から失望へのこのような急転に遭遇する場合、あまりに熱い湯と冷水にかわるがわる入る入浴のように、心が痛めつけられるのを欲しないないならば《調和のとれた気持を保つ》ような技術をもっていなければならなかった。私の技術は、もはや何も信じないこと、しかしそれぞれの噂を好んで話題にしながら、そこから希望を新たに活気づけることであった」。
 捕虜においては、自分たちがいつ解放されるか不確定でわかっていなかった。
 「奴隷の無関心さは、囚われ人の実存が《終末論的》であること[キリストの来臨とか将来の特別の出来事に規定されること、ここでは帰郷の目に規定されること]と関連している。囚人の実存は、私の体験では原始教会の再臨待望で語られた、キリスト者の実存と途方もなく似たものとなった。囚われ人は自分の人生に何らかの待望なくしては待つことをしない。彼はけして希望のない隷属状態にあったのではなく、実に多くのことを期待をしていた。彼は肉となった待望(die fieischgewordene Erwartung) であった。しかも彼はすべてを現在からではなく、将来から期待していた。ある定められた将来、聖書的に言うと『主の日』その日によってのみ現在の生活が甲斐があるものとなり、その日からのみ現在の生活が意味を得るそのような『日』から、すべてを期待した。それゆえ収容所では自殺は驚くほど珍しかった。『その日』の話をすると彼の顔つきは輝き、その日のクライマックス、わが家の出迎えの時を何千回も、寝入る時も働いている時も詳細に心に描いたのだ。…ここでわかるのは、聖書の表現『ある遠い日を喜ぶ』(へブル一一・一三)のもつ意味である。というのは『その日』は喜びと生命とみなされたからだ。現在は価値のないものになっていた。時間に対する囚われ人の終末論的な関係は、塗りつぶされるという点でしか現在に価値を与えなかった。『また一日減ったぞ』と寝る前にうれしそうにため息をつき、また作業のない待機の時には『こうしていれば囚われの生活が過ぎていく』との確信によって彼らは自らをなだめていた。現在の生活は、そこから意味がもたらされるところの終末論的目標[帰国の日]への歩みとしてのみ生きる価値あるものとなった。その目標を別にすれば、現在の生活はそれ自体では無意味であった。
アウグスティヌスがかって言ったように、ただ永遠のものだけが過ぎ行くものに意味を与えることができるからである。キリスト教の希望をもたない人間は、ここで外国の権力の奴隷の身においては外見上の自由のみが到達できる事柄と妥協しなければならない。…現在を無価値にすることは、キリスト教的に理解すると、現在それ自体はいかなる意味も持つてはいないで、むしろすべては目標[主の日、帰国の日]に関連づけられていた、ということのようだ。しかしこれは、現在を真剣に受けとめなくてよいとか、現在は毎日の感謝に値しないとか、を言つているのではない。小さな喜びを喜びとして受けとめる能力、喜ぶ能力は、私たちをどのような逆境からも解放してくれる抵抗力となるものである」。