建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

聖霊の働き  行伝13:1~4

1996-4

1996/5/12

聖霊の働き  行伝13:1~4 

 「私たちが学ぶべきことは、教会が宣教を《保持している》ということではなく、むしろ逆に、キリストの宣教自体が教会をつくり出すということである。宣教が教会からではなく、教会が宣教から理解されなければならない。福音宣教は、キリスト者の導きとその信仰の強化にのみ仕えるものではなく、その宣教は同時に常にキリスト者でない者をキリストへと召すことに仕えものである。…キリスト教共同体は、信仰から政治、経済に至るまで、生における領域も希望のないままとり残されることのないよう、救いの全体的な証しを推進してゆくべきである」(モルトマン「聖霊の力における教会」1975)。
 この命題は、私たちがこれから続けていく教会活動にとって多くの重要な問題点を指摘していると思う。ポイントは二つある。一つは、教会活動を「教会の枠の中」すなわち礼拝に集まる人々の「信仰を強化する課題」だけに限定せずに、キリスト者でない人々への「伝道」をすべきことを言っている点。もう一つは、福音の伝道を「福音の宣教」に限定せずに、社会的、政治的、人権的問題においても「証し」せよ、という点である。「教会はそのすべての活動、苦悩と共に、神の国の歴史における一要素である。肝心なのは、教会自身の拡張ではなく、神の国の拡張である」(モルトマン)。
 「聖霊の働き」。聖書が「み霊」と福音宣教との関連について語った点は重要である。エルサレムにおける原始教会の成立は、聖霊の降臨・ペンテコステの出来事であった。行伝2:1~13。   「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然天から激しい風が吹いてきたような音がして、彼らがすわっていた家中に響きわたった。また火のように分かれ分かれの舌が現われ、彼らの一人一人の上にとどまった。すると《彼らはみな聖霊に満たされて》、み霊が語らせるままに、いろいろな外国語で話出した」(2:1~4)。この聖霊降臨の出来事はいわゆる「使徒たち」ばかりでなく「すべての信仰者」(「彼らはみな」)が聖霊に満たされた出来事であった。彼らはこの「聖霊の降り注ぎ」を旧約の預言者ヨエルの預言「終りの時には、私の霊をすべての人に注ごう」(ヨエル2:28、行伝2:17)の成就とみなし自分たちを終末時の教団と解釈した。この「聖霊の賜物」はユダヤ人のみならず「遠くの国々に住むすべての人々」(2:39)に約束されたもので、これは異邦人伝道を暗示している。聖霊の降り注ぎの出来事(1節以下)と14節以下のペテロの「ユダヤ人」への説教・伝道は、聖霊と福音伝道との結合を示すものとして注目すべきである。
 行伝において、聖霊、み霊と伝道活動の結合の他の例をみてみたい。
 世界伝道への動機づけ1:8「聖霊がくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレムユダヤサマリアの全土、さらに《地の果てまで》私の証人となるであろう」。聖霊サマリア伝道との結びつきは、8:29、ピリポ(ステパノの殉教でエルサレムから逃亡した使徒)のエチオピア人のカンダケの高官への異邦人伝道の命令「み霊がピリポに言った『進み寄ってあの馬車と並んでいきなさい』」。
 9章のパウロの回心記事では「み霊と公的な宣教」が結びついている、9:17「アナニアは言った『兄弟サウロよ、あなたがくる途中で現われた主イエスが私を遣わされた。あなたが再び見えるようになるため、またあなたが聖霊で満たされるためである』」。パウロが「聖霊で満たされる」はパウロの回心の実態、また異邦人の使徒への聖別、召しを示している。
13:1~4「アンテオケの教会には、バルナバとニゲル(「黒い」)というあだ名のシメオン、クレネ人ルキオ、領主へロデ(アンティパス)の幼友達マナエンとサウロ(パウロ)らの預言者や教師がいた。彼らが主に祈り(主を礼拝し)、断食していた時、《聖霊が告げた》。私が呼び出してバルナバとサウロにさせようとしている仕事(異邦人伝道)に聖別しなさい。そこで人々は断食と祈りの後、二人に手をのせて旅立たせた。さて二人は《聖霊によって派遣されて》、セルギア(アンテオケから25キロにある港町)にくだった」。
 この箇所は、バルナバパウロの異邦人伝道が「聖霊によって動機づけられたもの、また聖霊による派遣」であったことを述べていて、重要である。ここでは、異邦人伝道にパウロらを派遣するのは、他の三人の指導者ではなく(彼らは按手しただけである)、聖霊である。聖霊の働きは、ここでは彼らが「祈り」と「断食」をしていた時に、発動している。「断食」は人をこの世から遠さけ、天的な示しの到来を受けるようにさせるという(ヘンヒェン)。主に対して心を向け、祈り、沈潜する状況で聖霊の働きがある点は現代の私たちも注目すべきである。教会の「単なる活動主義」においては聖霊は機能しない、むしろ「み霊を消す」ことになりかねない(第一テサ5:19)。聖霊による派遣は、使徒たちのユダヤ人伝道、異邦人伝道への派遣、16世紀のカトリックの海外伝道、19世紀の欧米プロテスタント宣教師たちの異邦、諸外国への派遣へとつらなる。
 パウロらの使徒的宣教の聞き手。パウロによれば、聖霊は宣教の聞き手にも働く。人がキリストを信じるのも聖霊による、第一コリ12:3「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことができない」。「教会のもつ新しさは、すべての教会員が伝道という歴史的課題の中に置かれている、それゆえみ霊を与えられている点にある。パウロにとってみ霊は本質的には信仰を与え、人間を信仰において生きさせる神の力である」(エドワルト・シュヴァイッアー「新約聖書の教会像」)。旧約聖書ユダヤ教においては、神はエルサレムの神殿にのみ住み、そこでのみ人に現われると理解された。しかしパウロにとっては、神は地上における「一つの聖なる空間」に結びつくことをされず、地上のいたるところで《み霊をとおして活動される》。かくして神のみ霊はキリスト者共同体においても臨在する、第一コリ3:16以下「あなたがたは自分たちが神の神殿であり、み霊があなたがたの中に住んでいるのを知らないのか」、ロマ8:11「神のみ霊があなたがたの内に宿っている(住んでいる)なら」。このみ霊は使徒的宣教自体に働く。ロマ15:18「キリストが私をとおして、異邦人の従順のため、言葉と業、しるしと不思議の力、聖霊の力において働かれる」。
 聖霊の働きのないところには教会の伝道もない、聖霊を求めないところには、伝道は存在しないという。賀川豊彦聖霊についてこう語った「クリスチャンであっても、この聖霊が解らない人が多い。…単なる歴史的なイエスを信ずるのみではたらぬ。われわれは魂の中に甦るキリストを味わうのでなくてはならぬ。聖霊とはわれらを貫き、われらを動かし、内側に働くキリストをわれわれに啓示してくれる神の内在的経験をさす。歴史的に現われたキリストをわれわれの魂の中にねじこみ、われわれがまた神の子たる体験にはいる一一これを聖霊の体験という」(全集5)。賀川はまた「聖霊について」とこう述べた「天の父なる神、われわれに聖霊を与えてください。求める者に聖霊を与えざらんやとイエスは約束し給いました(ルカ11:13)。願わくは民衆をして理解せしめ、神の慰めと、一致と喜びと真理を与え、実行性の宗教をわれわれに徹底せしめてください」(「全集 24)。
 「聖霊を求め、聖霊を受ける時、われわれはみな民衆への宣教伝道を実行するものと変えられる。これこそイエスの弟子たちがペンテコステ聖霊を受けて、民衆伝道に遺わされる使徒となった時に起った変化である。聖霊を受けていることのしるし、証拠は、宣教伝道を実行しているかどうかである。…日本の教会とキリスト者は宣教伝道していない。それはわたしたちがまだ聖霊をうけていない証拠である。そうであるならば、まず聖霊を求めようではないか。ありがたいことに、聖霊を求める者に聖霊をくださらないことはない、とイエスは約束された」(古屋安雄「日本伝道論」)。