建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

羊飼いへのお告げ  ルカ2:8~12

1999-44(1999/12/5)

羊飼いへのお告げ  ルカ2:8~12

 「さて羊飼いたちがこの地方の野原にとどまって、群の夜番をしていた。すると一人の主のみ使いが彼らに近づき、そして主の栄光が彼らのまわりを照らした。そこで彼らは非常に恐れてしまった。そしてみ使いは言った『恐れるな、見よ、私は民全体にもたらされる大きな喜びの使信をあなたがたに宣教するからである。ダビデの町に今日、あなたがたのために救い主、主なるメシアがお生まれになったからである。あなたがたは、みどり児が布にくるまれて飼い葉桶に寝ているのを見るであろう。それがあなたがたに対するしるしである』」。
 8節。ベツレヘムの荒野の低地には、昔から牧草地がある。ベツレヘムの近くにある、古代から教会で「羊飼いの野」とされたところには、ひさし状の岩の出っ張りがあり、雨風を防ぐのに都合がよいものであるいう(シュールマンの注解)。羊の群れはしばしば、長い距離を移動させねばならないから、ここの羊飼いたちは、ベツレヘムの住人とは考えられない。8節の「とどまって」は一時的な滞在である。
 「羊の群れの夜番」は、羊飼いたちが、夜交替で、羊を盗む者や獣から羊を守る番のこと。羊飼いは一般に、過越し(3月下句)から12月初めに始まる冬の雨期の時期の前まで、夜は戸外で過ごす。したがって、ここで、羊飼たちが夜、羊の番をしていたということは、冬の時期のことではないことになる。イエスが家畜(馬)小屋でお生まれになったということも、その家畜小屋には羊飼いたちがいないらしいので(冬の時期には必ず羊飼いたちが宿泊している)、この点も、誕生の時が冬でないこを示している(シュールマン)。イエスの誕生日を3世紀のアレキサンドリアのクレメンスは5月20日と推定したという(キリスト教大事典)。ローマ時代の暦では、336年のものに、12月25日を教会がキリストの誕生日としたとあるという。
 羊飼いたちの存在は、ここではメシア誕生にとって大きな役割を果している。この箇所での羊飼いは、どのようなイメージで理解すべきか。第一に、旧約では、彼らはよい者と語られている。また神やメシアは羊飼い、牧者に喩えられる。神は「イスラエルの岩なる牧者」(創世49:24)、「主は牧者のようにその群れを飼う」(イザヤ40:11)「私は自らわが羊を飼う」(エゼキエル34:15)、「主はわが牧者」(詩23)など新約では、失われた羊の喩(ルカ15:1以下)、イエスはご自分をよい羊飼いだと言われた(ヨハネ10:11)。
 第二に、エレミヤスは一一羊飼いは、他人の土地に無断ではいって行くので、泥棒のように軽蔑された職業で罪人に属すとみる。ラビたちは、羊飼いの立場に対して嫌悪を示したという。さらに、ギリシャ・ローマ文化圏でも、羊飼いは軽蔑された地位にあった。羊飼いをそのように解釈すると、ここで(9節以下)み使いが羊飼いにあらわれたということは、神の啓示は「軽蔑された人々」に与えられることを言っていることになる。しかしルカ伝では羊飼いに対する批判はまったくなされていない。
 第三に、シュールマンは、羊飼いの群れを、やがて救いを与えられる人々、ユダヤキリスト者を代表している、と解釈する。
 9節。夜の闇を「光の輝き=主の栄光」があたりを照らした(1:78「高きところよりの光が私たちを訪れる」またイザヤ9:2「暗黒のなかに住んでいた民は大いなる光をみた」参照)。神のみ使いが羊飼いたちの前に近づいた。光の輝きとみ使いの存在とは、この出来事が特別に重要な「啓示」であることを言わんとしている。羊飼いたちの「恐れ」も神的な顕現に出会った人々に共通した反応である(1:30、24:5)。
 10節。それに対して、み使いは「恐れるな」という。「民全体」は少し訳が難しい。自然な訳では「民全体」となる(塚本、シュールマン)。協会訳は「すべての民」としているが、ここは第一義的にはイスラエルを想定したほうがよい。ここでもまず、イスラエル民全体がこの使信を聞かされる。
 「大いなる喜び」は「大いなるメシア的な喜び」のこと。とにかくここの「喜び」は、主観的な「感情」ではなく、喜びをもたらす客観的な事実、メシア誕生の出来事を意味している。11節の「今日」は強調されている。1:26以下では、み使いガブリエルのお告げは、あくまでもメシア誕生についての将来的な約束であった。したがって「今日」はイザヤのメシア預言の成就、み使いのメシア誕生の約束の実現を意味する。「ここでは救いはすでに《現在のこと》とみなされている」(シュールマン)。
 「救い主」は、旧約には少ない表現(ハバクク3:18「私は《救い主》なる神によって喜ぶ」、詩24:5「このような人は、《救い主》なる神から義を受ける」)。
 逆に新約では、救い主が「神」を指す場合は少ない。ルカ1:47「私の霊は救い主なる神をたたえます」。これに対して「メシア」を指す場合が多い。行伝5:31「神はイスラエルを悔い改めさせて《罪の赦し》を与えるために、このイエスを導き手、救い主としてご自身の右に上げられた」、13:23、ピリピ3:20「天から救い主、主イエスキリストが来られる」、ヨハネ4:42「この人こそ、まことに世の救い主」など。こうみると、この「救い主」という表現はどちらかといえば、異邦人教会、パレスチナの、でなくヘレニズム・キリスト教会の表現である。オリエントやローマの世界では、ゼウス、アスクレピオスの神がこう呼ばれたという。またそこでの「政治的な支配者」もこの名で呼ばれたという。ルカ伝はこの「救い主」という称号を反皇帝的な意味合いも込めているようだ。ルカの場合、「救い主」の存在・機能は「罪の赦し」をなすメシアの意味をもつ。この救い主はあくまで宗教的であってオリエント、ローマにおけるように政治的ではない。救い主とは、メシア的な救済者をいう(シュールマン)。
 11節後半の「主なるキリスト」。この誕生記事(1~2章)では、「主=キュリオス」は、いつも神のみを指している。だから「主なるキリスト=グリストス・キュリオス」という表現はとても目を引く。この表現はエレミア哀歌4:20「主に油注がれた者=メシアハ・ヤハヴェ」の70人訳「グリストス・キュリウー」、詩2:2の70人訳「主の油注がれた者=クリステュー・キュリウー」=行伝4:26、などに由来する(シュールマン)。ここの「主」は、1:46以下の「主の憐れみ」「顧み」と密に関連する。1:48「このはしための卑購を《顧みて》くださった」。ここの「顧みる」は68「主はその民を《顧み》、彼らにあがないを用意なされた」、「顧みる」は神の恵みある訪れを意味する。「主はサラを顧みられた」、創世21:1、「高きところよりの光が私たちを訪れる」ルカ1:78(「訪れる」は「顧みる」)。
 「憐れみ」については、1:50「その憐れみは、代々限りなく主を恐れる者に及びます」、1、72「主はこうして私たちの先祖に憐れみをほどこされた」、78「これ(救い)は私たちの神の《憐れみ深い憐れみ》による。その憐れみによって、高きところから光が…」。この神の顧み=恵みある訪れが、過去を想起させて語られるばかりでなく、今やマリアへの顧み、「高きとろよりの光」として、現在の歴史の中に登場してきた一一これがイエスの誕生の出来事である。