建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

来臨の遅延5 日本における再臨待望3

2002-5(2002/2/10)

キリストの再臨3  マタイ24:32~33

 中田は、再臨運動の時点での評論「主の再臨」の中でこう述べてている、
 「主の再臨は、十年内にあるような気がすると、ある兄弟が申された。われらはある一派のごとく再臨の時を定めて騒ぐものではない。しかし時の徴しによりて考え、十年内にあるように思いおることは幸いである。かく考うることは益こそあれ、少しも害あるところのものではない。世はまた泰平になれて腰をおろすことであると思う。かかる時こそ聖徒の目ざむべき時である。再臨の時が切迫していると思うことによって、自己の聖潔を熱望するようになる。また熱心に福音を宣伝するようになるのは当然である。『いましばらくありて来る者来たらん。必ず遅からじ』(へブル10:37)。この『しばらく』とある時間を歴数的に論ずるのと、心霊的に味わうのとは大いに違う。心霊的に味わう者にはことしじゅう[今年中]に来たりたもう。でも百年後に来たりたもう。でも信仰には少しも動揺が起こらない。主の来ることの遅速によりて信仰が上下するようでは、まことに主を待ち望む者ということができない」(1919・大正8年1月、「全集」第7巻)。
 また説教「主の再臨はいつか」でこう語っている、
 「主の再臨については聖書に、父のほか誰も知る者はいないと言っている。…聖書の中には時のしるしについてわきまえることについて『いちじくによりて譬を学べ。その枝すでに柔らかにして葉めぐめば夏の近きを知る』とある[マタイ24:32]。しかし主の再臨はいつかと言えばとて、何年の何月何日にこのことがあるというのではない。ただ終りの近いことを悟るのである。…私はどうしても《数年内に、私の目の黒いうちに主の再臨があるような気がしてならない》。まず、み言葉によって学んでみよう。…」(1927・昭和2年2月、「全集」第6巻、強調、筆者)。
 この箇所からは、中田自身が主の再臨を内村などよりもはるかに近い時期、自分の生前にも起こりうると想定していたことがうかがえる。
 これと関連して《自分の生前に主の来臨があると考えていたと解釈できる人々》 いるようだ。それにはまず、使徒パウロをあげることができる。次に19世紀ドイツの牧師、父ブルームハルト(1808~80)。ブルームハルトに関しては「主が再臨された時に、その再臨された主のもとに急ぐためにバード・ボル[彼の住んでいた地区]には、いつも一台の馬車が用意されていたという伝説」が残されているという(井上良雄「神の国の証人ブルームハルト父子」)。第三が中田重治。そして最後にカール・バルトがいる。
 内村鑑三の再臨論は「キリストの来臨・再臨への待望」が近代の日本人キリスト者の心と知性においてみごとに結実したものである。私たちは、欧米の神学からだけではなく、幸いにして近代日本のキリスト者の先達からも、キリストの来臨への待望をより身近なものとして《引き継ぐ》ことができるのだ。
 そればかりではない、特に中田重治の再臨論の場合には、重大な政治的問題があった。十五年戦争下、再臨論の千年王国説の内容が天皇制国家の天皇統治権力を廃棄すべきものとみなす点で「国体を否定する思想」と断定されて、国家権力による《ホーリネス系教団弾圧の口実とされた》(弾圧事件は1942・昭和17年6月。検挙された牧師134名。起訴された者79名。獄死・出獄直後死亡8名。中田自身はその3年前、39・昭和14年9月に病没していた、拙著「宗教者の戦争責任」87頁以下参照)。その点でも再臨論は現代の私たち日本のキリスト者にとって、継承と検証とを要求される重要な信仰的・神学的なテーマである。弾圧下では《中田重治の再臨論とできる限り距離をおき、それと縁を切る擬態によって官憲の弾圧や嫌疑から逃れようとした戦時下教団指導者たち、神学者の醜く破廉恥な自己保身的行動》があった(辻宣道「ホーリネス弾圧と私たち」1992。辻氏は中田のそと孫にあたるが中田の黙示録の解釈に対しては厳しい批判をもっている前掲書)。現在は中田の再臨論をじっくり検証しつつ、批判的に受容すべき時期にきている。《聖書の再臨の教説、先達の再臨論》を無視したり、避けて通ったり、単に批判に終始するという態度は、新約聖書の重要な核心「主の来臨への待望」をないがしろにするものだ、と私たちは考える。