建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ルカの復活理解3&4  ルカ24:36~43

2002-17(2002/5/12)

ルカの復活理解3  ルカ24:36~43

 《イエスの復活における身体性》に関して、パウロの見解「霊の体」とルカ(およびヨハネ)「骨と肉の体」の双方を新約聖書は述べている。ではこれ対して私たちはどう判断したらよいのか。四つのポイントを取り上げたい。
 (一)ルカ24:36以下の成立の時期については「遅い時期の護教的作品である」との解釈がある(ブルトマン「共観福音書伝承史」)。この立場にたってグラースやバンネンベルクらは、この記事を復活の出来事よりもずっと後に成立した「聖伝」とみなし「史実的核を見い出せない」と結論づけ除外してしまった。しかしいやしくもこの記事は正典に入れられたものであって、しかもニュアンスこそ若干違うものの「ヨハネ20:36以下のトマスへの顕現記事」という並行記事もある。したがってこの記事を無視する立場は、福音書の復活記事の重要部分をも決定的に軽視・無視するものである。復活の出来事への「史実的な研究成果」しかもあくまで仮説にすぎないものを前提として、福音書の復活記事(特にルカ伝)を一面的に軽視・無視するやり方は疑問を感じる。パウロの霊的体への復活論とルカの肉体への復活論、相互に相異なるが復活論が《併存》してもかまわないではないか、と私たちは考える。
 (二)イエスの「霊的体への復活」ではなく、「イエスの肉体への復活」というルカやヨハネの立場を支持して受け入れるキリスト者は、現代においても多数存在することは確かである。先の使徒後教父の文書にもあるとおり、この立場は、ルカの教会の見解(あるいは受け継いだ見解)であって、後90年代のみならず第二世紀にはパウロの見解よりもずっと広まったようだ。しかしながらこの立場が、パウロの復活理解に対してどのような態度をとったかは明らかではない。とはいえ一方のパウロの、霊的体への復活論と他方のルカの「身体具有的・肉体への復活論」とは、正典聖書がしるした二つの相異なる復活論である。イエスの十字架に関して、一方の「すべてが成就した」とのヨハネの見解や敬虔な殉教者的な死をとげたとのルカの見解とは真っ向から対立するところの、イエスが絶望の叫びをあげられて死をとげられた、とのマルコとマタイの見解が共存している。それゆえ復活に関しても相異なる見解が新約聖書において共存していたにしても、それほど驚くには当らないと考える。
 「使徒信条」(後270年以後)には、「我は《肉体のよみがえり》を信ず」とある。ここは日本語訳の「《からだ》のよみがえりを信ず」ではなく、厳密には《carnis・肉、肉体》のよみがえり、を言っている。英語、ドイツ語の「flesh、Fleisch」である。通常英訳では「body・体」を当てているようだ(モルトマン「イエス・キリストの道」、ベルコフ「かたく基礎づけられた希望」1969など)。
 「ハイデルベルク信仰問答」(1563)の「問い57」は、「体の復活」ではなく、むしろ「肉の復活」について、語っている。問57の答「この生命の終ったのちに、私の魂が直ちにかしらなるキリストのもとに受け取られるばかりではない、《私の肉》[Fleisch]もまたキリストのみ力をとおしてよみがえらされて、再び私の魂と一つにさせられて、キリストの栄光の体と同じ姿にさせられるとある。
 内村鑑三の復活論においても、「体の復活」という表現はまれで、「肉体の復活」という表現が大部分である。「<霊的復活にあらずして肉体の復活である>」後述、再臨論。
 (三)バルトは復活させられた方との身体的接触を「その方の栄光の啓示」と解釈する。バルトはこの記事も、ヨハネ20:24以下のトマスの話も、仮現説的復活論への反駁と防衛をしていると主張する。
 「この者、肉をとった神の永遠の言葉として神の隠された栄光を啓示する方ーそれが死人の中からの現実的な、したがって<また体の復活>[leibliche Auferstehung]の中でのイエスであった。すなわち現実的にしたがってまた<身体的に>復活させられた方として顕現されたイエスであった」(「教会教義学」Ⅲ/2、47節、時間の主、イエス)。
 「復活させられた方に、まさしく手でふれることができるということは、復活させられた方が、抽象的に魂あるいは霊魂[Socle oder Geist]ではなく、むしろ自分の体の魂であり、体でもあるところの、一人のまつたき人間イエス以外の何ものでもないということである。よみがえらされた方を身体的に見たり、身体的に聞いたりしたということと共に、まさしくよみがえらされた方に身体的に手でさわったということが、イエス・キリスト使徒としての実存を成立せしめている。キリストの栄光を見ること、すなわち《その中にキリストの栄光が啓示されているところの、彼の肉体[Feisch]を見、聞き、手でふれること》をとおして、言い換えると、まさにこの時間の中でイエスと共にあることをとおしてこそイエスについての使信を宣教すべき権威が与えられ、聖別された人々の信仰が生み出されるのである」(前掲書)。
 しかしながら、バルトは、この解釈と《パウロの、霊の体への復活という見解との対比論、つき合わせ》をしていない。この点が私たちには大いに不満である。

 

2002-18(2002/5/19)

ルカの復活理解4  ルカ24:39~40

 (四)パウロの見解「霊的体への復活」とルカの見解「肉体への復活」との対立をなんとかして統一しようとの見解がある。
 ミハエリスはルカ伝の記事の、復活した方がもっている「肉と骨」は、パウロの《霊の体と矛盾するものではない》と解釈した。
 「『イエスはご自分を生きたものとして示された』(行伝1:3)は、蘇生とは関連していない、むしろ復活し高挙された方の《生命》を言っている。…パウロは顕現においてご自分を啓示したキリストを《霊の体》(第一コリ5:44)《変容させられた》(15:43)《天的な》身体性(15:49)《栄光の体》(ピリピ3:21)と特徴づけている。…ルカ24:39の、復活した方の手足の提示、幽霊ではないとの言葉は、復活した方が《ある身体性において顕現した》と把握すべきだ。復活した方の身体性の場合、変容させられた、霊的な身体性を《意味していないという根拠はまったくない》。ルカ24章の表現(幽霊ではないとの言葉、手足の提示、弟子たちの前での食事)をパウロの《霊的な身体性》と関連づけることは拒否されない。ルカによれば幽霊には肉も骨もなく、復活した方がけして幽霊でないとすれば、復活した方は、パウロの用語でいえば『霊的な(変容させられた、天的な)ソーマ・体』をもたない、とはいって《いない》、また『魂的(地上的な)ソーマ・体』をもっていた、とは《言っていない》。ルカのいう『肉と骨』はパウロが『ソーマ・身体、身体性』という概念で表現したことを表現している。肉と骨への示唆をとおして、このソーマ・体の霊的な性格に異論を唱えているのではなく、むしろソーマ(身体)的なものの現実性が証言されているはずである」(ミハエリス「復活した方の諸顕現」1943)。この解釈に私は感動をおぼえた。
 教理史的にみると、古代のギリシャ教父たちはパウロの霊的な体への復活論を支持していたが(後100年ころのイグナチウスなど)、ラテン教父たちになると、ルカの、肉体への復活論を支持したという。
 すなわち、グラース・パンネンベルクの線は、教理史的にはそれほど支持されていないのだ。