建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅲー貧しい者、病人の希望-4 病人の希望②

長血の女性への癒し
 マルコ五・二五~三四「一人の女がいて、この人は一二年間長血をわずらって、多くの医者からさんざん苦しめられて、全財産をついやして何のかいもないばかりか、かえってますます悪くなってしまった。この女はイエスのことを聞いて、群衆の中にまじって後からイエスの着物にさわった。『私があの方の着物にさわりさえすれば、私は癒される』と思ったからである。するとたちまち血のもとがかれて病気がなおったのを彼女は身に感じた。たちまちイエスはご自分から力が出ていくのに気づかれて、群衆の中で振り返って言われた『私の着物にさわったのは誰か』。弟子たちが言った『群衆があなたを押しまくってきているのに、誰が私にさわったかと言われるのですか』。イエスはこのことをした人を見つけようと周りを見回しておられた。すると女性が自分の身に起きたことを知つて、恐れおののきながら前に進み出て、イエスの前にひれ伏し、すべてありのままを話した。イエスは言われた『娘よ、あなたの信仰があなたを癒したのだ。平安のうちに行きなさい。病気から解放されて、達者でいなさい』」(ぺシュ訳)
 この女性のこれまでの苦しい病気との闘いは、三つのポイントでしるされている。第一に「一二年間、長血であった」。「長血」は男性の場合「膿漏」の一種で、レビ一五・一九、二五以下では、女性の場合の「流出」とある。「女にもし、その不浄な時のほかに多くの日にわたって血の流出があれば、その汚れの流出の間、その女は汚れた女である」(二五節)。その女性のふれたものも汚れる(二六節)。つまりここでの長血は、子宮からの出血の病気のこと。レビ一五章によると、この女性のふれる者(もの)(マルコ五・二七)はすべて「祭儀的に汚れる」のであるから、この女性は一二年間、家族や共同体から交わりを遮断されてきたー聖所にちかづくこと、過越の祭りに参加することなどができない、という意味がここではこめられている。「一二年間」の病気は彼女の苦しみの長さとひどさを物語る。第二に、この女性が病気を癒そうとした試みはすべて失敗したー多くの医者にかかって苦しい治療をうけた、しかし何の効果もなく病気は悪化した。外典トビト二・一〇には眼病のトビトが何人かの医者のところへ出かけていったが、医者が目薬をぬればぬるほど彼の眼病は悪化した、とある。当時のユダヤ教では医者の存在をよきものとは見ていない(ぺシュの注解)。第三に、この女性は財産も使い果して、何の甲斐もなかった。
 二七節には、この女性がイエスのもとに来た動機や行動が述べられている、「イエスのことを聞いて」はマルコ一・二八「イエスのうわさはたちまちガリラヤ全地方に広まった」、三三節「人々は病人をイエスのところに連れてきた」などをふまえたもの。
 彼女の次の行動「群衆の中で(交じって)」は、先のレビ記の箇所をふまえると、自分が交わりを締め出されている、人中に出た彼女の必死の、大胆な行動である。
 「後からイエスの着物にさわった」は、彼女の密かな思いを示唆する。まず「後から」はおずおずとしたためらいを、また長血の女が「他の人に接触すること」は、汚れを引き起こす(タブーを破るもの)であるから敢然たるものであった。さらに、この「イエスの着物にさわる」は、「イエスにさわること」で自分の病気が癒される(三・一〇)。病気の人がイエスの「上着のふさにふれさせてほしい」と願い、触った者はみな癒された(六・五六)などとあるように、彼女の「信仰」(三四節)と関わるポイントである。すなわち、二八節、彼女は「イエスの着物にさわるだけで自分の病気は癒されると信じた」のだ。ここの「思った・レゴー」は直訳では「自分に言う」で、意訳では「確信する」の意味。後述。
 古代における癒し奇跡では、癒しを行なう人と病人との間に神的力の働きが起こる、その起こり方について独特の考えがあった。つまり、癒しを行なう人は病人に触ると、癒しの力がその接触をとおして高まり癒しの作用をする。マルコ五・二三八「娘に、手をのせてください」。ルカ六・一九「群衆は皆イエスにさわろうとした。イエスから力が出てみんなの者を癒したからである」。ここでも、三〇節に「イエスは自分の中から力が出ていったのに気づかれて」とある。イエスにおける癒しの神的力(デュナミス) は、イエスの着物への女の接触をとおして、その女性の体に伝わり(二九節)、その女性の体に直接、癒しの作用した。ここでの「力」とは、マタイ一二・二八によれば、悪霊を追放する「み霊の力」であり、ル力五・一七によれば「主の力がイエスに(臨んで)病気を治させた」(シュールマンの訳)「神の力」である。神の力は、イエスをとおして、イエスの存在、その体をとおして病める人々に働く。ここでは、イエスはこのような「神の力」を所有する方、神の力はこの方をとおして働く、そのようなお方である。
 二九節「たちまち、彼女の血のもとがかれて、彼女は自分の病気から癒されたのを、体でもって気づいた」。ここでの「病気・マスティゴス」は、病気の苦しみ「宿痾」。
 三〇節「たちまち、イエスは、自分自身から力が出ていったのに気づかれて、群衆の中で振り向き、言われた『私の着物にさわったのは誰か』」。
 二九、三〇節の「たちまち」は、原文でも文頭にあって、強調されている。また癒し奇跡の記事では当然のことながら、この女性が病が癒されたことを「身に感じた・体(ソーマ)で気づいた」(二九節)とイエスご自身「彼自身・彼の体から力が出ていった」ことを体で感じられた(三〇節)は、癒しが、イエスの体とこの女性の体との間に、神の癒しの力・ディナミスが作用し、それが女性の側では病が治ったことに「体で気づいたこと」イエスの側ではご自分の力が出ていったことに「体で気づかれたこと」として記されていて、印象的である。この「神の力」を着物に触った者には誰にでも作用する「魔術的なものと解釈する」のは、正しくないし、この箇所の内容からずれる。多くの人々がイエスに触ったのであるが(マルコ三・一〇)、信仰をもってイエスの衣に触ることだけが癒しの力を呼び起こしたと解釈すべきである。これは「奇跡と信仰」というテーマである。後述。神の国・神の支配の到来は、ここでは癒し奇跡、つまり人間の存在の身体性を包括する、体の救いに関わるものであることを示している。他方「体の救いのポイント」は、パウロにおいては、究極的希望であった「私たちは体の贖い・救いを待ち望んでいる」ロマ八・二三。したがって、神の支配を「人間の魂の救い」の問題に限定することは誤りである。この女性においては、イエスによる癒しが「体で起こり、体で体験された」点はその意味できわめて重要である。
 三四節「イエスは彼女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを癒したのだ。平安のうちに行きなさい。その病苦から解き放されて、達者でいなさい』」
 「娘よ」との呼びかけは、彼女の三三節の説明や態度をふまえた、信頼の表現である。神に祝福された女性よ、のニュアンス。「信仰」という言葉は、冠詞がついていて絶対的用法で強調されている。何を信じているかは問題とされず「あなたの信仰」とだけ言われている。「あなたの信仰があなたを癒した」との言葉は、他に、一〇・五二=マタイ九・二二、ルカ八・四八、ルカ一七・一九(一〇人のらい病人の癒し)など。ただ、イエスは病人を連れてきた人々の信仰(マルコ二・五)、自分の子の癒しのためにイエスに取りすがる母の切望・信仰(カナンの女、マタイ一五・二一以下など)、部下のための切願(マタイ八・五以下の百卒長など)も、このポイントに関わっているが。
 この言葉(あなたの信仰があなたを治した)をどのように解釈するかについて。
 第一にこの信仰は病気の癒し手である「イエスその人でなく、イエスの中に働く神の力に向けられている」(フラー「奇跡の解釈」)がある。これはうがった見方であるが、この女性の信仰「イエスの着物に触るだけで自分の病気は癒される」は、イエスの中に働く神の力ばかりでなく、イエスご自身にも向けられていた、と解したほうがよい。先述の、信仰をもってイエスの衣に触ることのみが、イエスの内にある神的癒しの力を呼び起こしたとの見解である(ぺシュの注解)。
 第二に、したがって、ここでの「信仰と癒し奇跡との関連」はこうなるー癒しの神的力は、一方的にイエスから出て行くのではない。また、イエスが単純にそう望まれる時に作用するような働きでもない。むしろこの神的な癒しの力はイエスという存在とイエスの中にその力を求めて押し迫ってくる人々の間で出来事として起こるのであり、それゆえ、イエスの存在と人々のイエスへの信仰とがあいまって、相互関連の中で一つになるところで起こるのだ(モルトマン「イエス・キリストの道」)。長血の女性のイエスへの信仰が、イエスの中にある癒しの力を呼び起こしたのだ。
 第三に、ここでの信仰は、この女性のようにけして受け身的な態度ではなく、精力的に執拗にひたすらに神の助けをつかみとろうとする行動である。万策つきてもあきらめない態度である。