建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅳーイエスの十字架と絶望-3 イエスの十字架上の叫び③

女性弟子たちの随順
 イエスの十字架においても、マグダラのマリアはその場に居合わせている。
 「そこには、《遠くのほうから眺めている》多くの女たちがいた。彼らは《イエスに仕えてガリラヤから従ってきた》人たちであった。その中にはマグダラのマリアヤコブとヨセフの母マリア、またゼベタイの子たちの母がいた」(マタイ二七・五五以下)。
 この箇所について、荒井献「新約聖書の女性観」(一九八八)は、マグダラのマリアたちがイエスの十字架を「遠くのほうから見ていた」との表現が「何らかの意味でイエスに対する女性たちの距離を示唆しようとしている。そこにマルコ伝(やマタイ伝)の女性批判をみてとれる」と述べている。その理由として荒井氏は二つあげて、第一に、この「遠くのほうから」との表現は詩篇三八・一一 「わが友、わがはらからはわが災いを見て離れ、わが親族もまた《遠くから》離れて立つ」を引き合いに出し、災いに出会った人に「遠くから離れて立つ」のは、相手に対して距離を置く冷たい態度だ。また第二に、捕縛されたイエスの後を「遠くのほうからついていった」ペテロの行動にも「自分が捕らえられることを恐れた行動を表現している(マタイ二六・五八)、と荒井氏はいう。
 しかし、マグダラのマリアら女性たちの行動をそんなにも突き放して解釈することはない、と私は考える。
 マルコ一五・四〇、四一「また遠くのほうから眺めていた女たちがいた。そのうちには、マグダラのマリアヤコブとヨセの母マリア、およびサロメもいた。この三人は《イエスがまだガリラヤにおられた時、随順し仕えていた》人たちである」。
 この箇所では、マリアたちのイエスへの随順と奉仕とは「ガリラヤにおられた時」つまりすでに過去のことであって、かつイエスに対するマリアらの行動は「随順」よりも「奉仕」が強調されている(ローマイヤーの註解)。
 他方先に引用したマタイ伝の記事では特に「女たちはイエスに仕え《ガリラヤから随順してきた》」(マタイ二七・五五以下)事実が強調され、マリアらの随順がガリラヤからエルサレムにまで至り、さらに今やその街の外にあるゴルゴダの十字架にまで継続された、すなわ、《イエスへの服従、随順の一貫性》が強調されている(ローマイヤーのマタイ伝註解)。用語的にはマリアらが「遠くのほうから眺める・見る=テオーレオー」は「墓を見にきた」(マタイニ八・一)においてはマリアの熱い胸のうちを表現している。すなわちこの「テオーレオー・見る」は対象を傍観者的客観的に突き放して見るのでなく、主体的体験的な知覚、体験的に見ること、を意味する(ヨハネ八・五一「私の言葉を守るならばいつまでも死を見ることがない」など)。マタイ伝ではこの用語はイエスの墓と十字架を「見る」にしか用いていないので、墓詣での場合と同様にマリアらの「熱い胸のうち」を表している、したがって十字架から遠いか近いかは問題ではない、と解釈できる。
 さらに「教会は十字架についてマグダラのマリアたちの証言以外には、第一級のキリスト教の証言を持つていない」(カンペンハウゼン「空虚な墓」)。「女性たちは十字架に至るまで従っていった。女たちはイエスの後に服従し続ける勇気を持っていた。女性たちが《遠くのほうから見ていた》点は彼女らの服従を傷つけるものではない。むしろ女たちは十字架の目撃証人として召されたのだ」(グニルカのマタイ伝註解)。
 「アリマタヤのヨセフは(イエスの)亡骸を受け取り、清らかな亜麻布で包み、岩に掘らせた自分の新しい墓にそれを納め、墓の入り口に大きな石をころがしておいて立ち去った。マグダラのマリアともうひとりのマリアはそこに残って、墓のほうを向いて座っていた」(マタイ二七・五九~六一)。マグダラのマリアらが「墓に向かってすわる」とは、イエスの死という衝撃への悲しみの行為である(エゼキエル八・一四)。アリマタヤのヨセフは最高法院の議員の一人で(ルカ二三・五一には彼がサンヘドリンのイエス死刑判決の決議に賛成しなかったとある)、密かにイエスの弟子となった人であるが(マルコ一五・四三、ヨハネ一九・三八)、イエスの死と遺体の下げ渡し埋葬の中で「絶望的動揺」を味わって墓から立ち去ってしまった。これに対して、マグダラのマリアらはそこに留まって「悲しみと実現のきざしもない期待をいだき続けた」(ローマイヤーの註解)。この期待は彼女らの墓詣でにおいても見い出せる。
 「安息日の後、週の初めの日暗い時、マグダヤのマリアともう一人のマリアとが墓を見にいった」(マタイニ八・一)。安息日ユダヤ教においては金曜日の夕方から土曜日の夕方まで。マルコ一六章、ルカ二四章などでは、マリアらが墓に行く理由は「イエスの亡骸に油を塗る」ためとなっているが、死後三日目の塗油は不自然に思われるためか、マタイ伝ではマリアらは、夜の暗いうちに「墓を見に行った」とある。金曜日の埋葬の時点と同様に、マリアらは暗いうちに墓のところに座って、亡きイエスのために泣きたいと欲したからである。この行為を安息日の戒めは禁じていた。「マグダラのマリアらがなおイエスに身体的近さを感じている間は、彼女らは揺るぐことなく真実と耐えぬく力を持っていた。死に瀬し、死んだ体、埋葬し香油を塗った体が彼女らをイエスと結びつけている」(モルトマン・ヴェンデル)。マリアらが墓を見に行ったのは、「十字架と死は決してイエスの終りではないとの予感」が働いていたからである(ローマイヤー)。マリアのイエスの体への執着、固着をマタイ伝はひときわ強調している点は確かだ。
 ペテロら男性の弟子たちとは《全く相違して》、マグダラのマリアら女性の弟子たちのイエスの苦難に対する対応は注日すべきものがある。「弱さにおいて十字架につけられ、栄光のうちに生きておられるイエスに対する(男性)弟子と女性の弟子たちの矛盾した経験」(モルトマン「イエス・キリストの道」)。男性の弟子たちと違って、マリアらは《絶望しなかった》ようにみえる。