建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅴー復活の史実性の問題性-1 心理学的解釈 

第五章 復活の史実性の問題性
 「人間の希望は人間の死によってついえ去ってしまう」 という逃れようのないアポリア・難局をもっている。この難局を突破する希望の形としては、ヨブの希望があった。そして死によってもついえ去ることがない希望がキリスト教の希望である。なぜならこの希望は死を超えた希望であるからだ。
 「そしてその時精神は、希望、最も厳密なキリスト教的な意味での希望、すなわち『希望にさからう希望』[ロマ四・一八、引用者]をもたらす。なぜなら直接的な希望はどの人間にもあるからだ。しかし死という、希望のない状態の中では、そのような希望は、すべて死に絶え、絶望へと変わる。この絶望の夜の中では(私たちが叙述しているのは死なのであるが)、やがて人を生き生きとさせる精神が現れて、希望、《永違という希望》をもたらす。その希望は『希望にさからう』。なぜなら単なる自然のままに希望することにとっては、最早希望はなかったからだ。したがってこの希望は『希望にさからう希望』なのである」(キルケゴール「自己吟味のために現代に命じる」)。
 死を超える希望は「死人の復活」を根拠としている。それゆえ私たちはまず死人の中からの復活である、イエスの復活を取り上げる。これは大きなテーマである。イエスの復活は「キリスト者の復活への希望」 の根拠である。 イエスの復活がもしなかったとしたら、キリスト者の復活も存在しえないのだ。
 古代の神学者テリトリアヌス(後二〇〇年ころ)は「不合理なるがゆえにわれ信ず、しかし信仰は知解を要求する」と述べた。キリスト者の将来的な復活への希望の根拠である、イエスの復活の出来事は真実希望の根拠となりうるのか。 ここではこのテーマに取り組む。 テーマが少し厄介であるが辛抱してほしい。《キリスト者の希望も、キリスト者の将来的な復活への希望も知解を要求する希望》であると私たちは考えるからだ。

復活に対する心理学的解釈の問題
 死人の復活は、第一に、「死人の蘇生」とは別物である。新約聖書にもラザロの復活(ヨハネ一一章) ヤイロの娘(マルコ五章)などの蘇生の奇跡が述べられている。しかし蘇生された人々はやがて死ぬのだ。これに対して、復活させられた者は、もはや死ぬことがなく、不朽の生命の中にある。
 第二に、死人の復活は「自然法則に反するから認められないという立場」も存在する。しかし自然法則は、けしてオールマイティーではない。現代の人間にとっては、自然法則は一部分しかわかっていないし、ある出来事がこの法則に適合するか否かも、事柄の一側面でしかない。自然法則を根拠にしている自然科学の力も大きな限界をもっている。私たちは、癌のような自然科学が征服できてない分野、自然科学が無能にみえる分野を多く知つている。他方罪なき大量の人間が無残に殺害される悲慘な事件も、 ヒロシマアウシュヴィッツなど、二〇世紀の戦争の中で数多く私たちはみた。その人々の生命、財産、打ち込んでいた仕事、いだいていた愛や夢や希望、それらをどう償い、回復すればいいのか、この問いに対して、自然科学は無能である(実は死人の復活の背景には「この問い」が厳然と存在する)。歴史における出来事一般が実際起こりうるかどうかは、むろん自然法則や自然科学に基づいてある程度は判断できる。しかしある特定の歴史的な出来事が実際あったかなかったについて、自然法則や自然科学はその出来事がその法則、その科学的な知識に適合するかどうかの判断は出せても、最終的に実際起きたか起きなかったかの断定はできない。ある特定の歴史的な出来事が起きたかどうかを判断するのは、自然科学者がその知識に基づいて判断すべき課題ではない、むしろ歴史家の課題、任務なのだ。すぐれた科学者は、ある特定の歴史的出来事があったかどうかについて、 けして自然法則に反しているからそれは起きなかったのだと断定はしないで、むしろ判断停止をおこなうのだ。このポイントは復活の出来事 への問いにも適応される。

第三に、 復活についての心理学的解釈
 一九世紀、フランスのルナンは著書「イエス伝」(一八六三)において、イエスの復活はマグダラのマリア(以前その重い精神疾患をイエスに癒していただいた女弟子で、復活のイエスに最初に出会った者の一人、後述)の《精神疾患がつくり出した空想の産物だ》(主観的幻想説と呼べるもの)と主張して、世間のごうごうたる非難を浴びた。この本は岩波文庫に入っているので、日本においてキリスト教についてよく知らない人々や、キリスト教に批判的立場の人々が「とびつきやすい解釈」だ。しかしながらこのルナンの解釈は、使徒パウロの復活証言とは適合しないし、キリスト教会の成立、その世界伝道への展開など何ひとつ説明できない。それゆえルナンの解釈を今日では真剣に取り上げるキリスト者はいない (第一次大戦終結するまでは、「自由主義的神学」においてはルナンと類似した立場はまだまだまかりとおっていた。一九一八・大正七年、内村鑑三は再臨運動の最中、ルナンと同種の教会史家レーキ教授の見解に批判を浴びせている、後述)。
 他方では、イエスの復活は《弟子たちの熱狂的興奮の想像力によって形成されたものだとの解釈・主張》は、ルナン以後も後を絶つことなく繰り返し試みられた。この立場の問題点はさまざまにあるが、その一つは「イエスの復活顕現をもっぱら弟子たちの復活信仰からだけ説明しよう」として、復活顕現を成立させたのは復活信仰であると歪曲している点、すなわち復活信仰を成立させたのはほかでもなく復活顕現である点を、たやすくあるいは故意に見落としている点である。最近の心理学的解釈の一例として、ドイツの新約学者リューデマンの、ペテロへの復活顕現についての解釈をスケッチしたい。
 「ペテロがイエスを否認したにもかかわらず、イエスの死にもかかわらず、復活祭のイエスの赦しの言葉[ルカ五・一〇後半「恐れることはない。今から後あなたは人間をとる漁師になる」を原著者はそう解釈した]が悲嘆に沈むべテロに届き、彼はイエスを<見た>のである。彼はイエスの言葉を今なお生きている方の言葉として、イエスの全体との出会いとして、経験した。ペテロの状況は悲嘆の状況といえる。これは、愛する者を失って悲しむ者が、なお死者が現存しているというイメージをもつという報告との比較から明らかである。…さらに幻覚と幻聴に加え、死者が現存しているという感覚をもつことがきわめて多い。『死者はいつも私と一緒にいます。彼はもう思い出でしかないとわかっていますが、私は彼を見、彼がしゃべるのを聞くのです』(Y・シュピーゲル「悲嘆者の過程」から原著者の引用)」(リューデマン「イエスの復活」一九九六、橋本慈男訳)。
 ここを読むと復活の心理学的解釈といっても、この程度のものかとがっかりさせられてしまう。先に指摘したように、この解釈は、復活顕現を成立させたのは、ペテロの心の感情、悲嘆の状況であって、復活信仰が復活顕現を成立せしめたという転倒の誤りを犯している。心理学的解釈はイエスの復活の出来事が、弟子たちの内面に起きたものではなく、むしろ弟子たちの存在や心の外側で《エクストラ・ノス・私たちの外側で》起きた点を無視している。しかも、この解釈は、聖書の本文「キリストはケパ(ペテロ) に現われたこと」(第一コリント一五・四)や「まことに、主は復活して、シモン・ペテロにご自分を現わされた」(ルカ二四・三四)と結びついた解釈とはとてもいえない。さらに、心理的な解釈が見落としているのは、パウロの見解においても、顕現がマグダラのマリアやペテロに限らず多数の者に起きたこと(第一コリ一五・三以下)、顕現の期間もけしてペテロへの顕現の段階に限定されず、パウロへのそれの段階に至る期間は、ほぼ三、四年間にわたっている点である(顕現の期間を四〇日としているのはルカのみである、行伝一・三)。顕現の場所も、ガリラヤ、エルサレム、エマオ付近、ダマスコなどの拡がりがある。すなわち顕現記事について心理学的解釈など試みないで、パウロらによってしるされた顕現記事を史実としてそのまま受け入れてそれに基づく解釈をするほうがはるかに実りの多い結果をもたらすはずである。

復活は史実か
 さて宗教改革の時期においては、キリスト者は「聖書に書いてあるとおりに復活の出来事は起きた」と信じていた。当時のキリスト者には聖書本文の《記述と出来事は一致していたのだ》。しかしながら近代以後のキリスト者はこのような信仰を持てなくなり、復活記事に対してもっと批判的な目をむけて、記述をうのみにしないで、復活の出来事が記述どおりに起きたかどうか問うようになった(パンネンベルク「組織神学」第一巻)。そこで復活の出来事をどのように把握するかが、あらためて問題となった。
 私たち日本のキリスト者は、特にドイツ語の「史実的・historisch」という用語に悩ませられてきた。厳密に学問的に復活記事を読み、研究することに慣れていない者にとって「キリストの復活は史実的な出来事ではない」という主張(バルト、ブルトマンなど)に出会うと《復活の出来事それ自体が否定されたかのように思えて》悲しい思いを経験をさせられたものだ。そもそも「歴史、史実」という用語が難しい。
 「史実的、歴史的」という用語のうち「historisch・史実的」というのは、近代の歴史学の研究(史実的)方法によって確認できる歴史的出来事のことで《史実・Historie》と表現される事実。historischはその形容詞。他方「geschichtlich・歴史的」というのは、カール・バルトによれば、史実として確定できることよりも、はるかに確実に時間の中で起きた出来事のことで《歴史・Geschichte》と表現される。geschichtlichはその形容詞。「イエスのよみがえりの歴史(Geschichte)はこのような出来事の一つである」(バルト。カンペンハウゼン「空虚な墓」の蓮見和男氏の訳注からの引用)。
エスの復活をめぐる、イエスの弟子たちとユダヤ教徒(ユダヤ教当局者)との間の論争では、神がイエスをよみがえらせたかどうかが争点であった。イエスの埋葬された「墓が空であって、その亡骸が消失した」ことについて、ユダヤ教当局は、夜イエスの弟子たちがイエスの亡骸を盗んでいったからだというデッチあげの解釈をして、その噂を広めさせた(マタイ二八・一一以下)。他方弟子たちはイエスが復活なさったから「墓は空である」と主張した(四福音書)。すなわち論争相手のユダヤ教当局者も「空虚な墓の事実」は承認しながらも、その理由について弟子たちとは異なった根拠をあげて歪曲したのだ。
 しかしながら近代以後においては、復活が史実的に可能かどうかが論争の的とされた。「空虚な墓」の記事、マルコ伝一六章について、ハンス・グラースは、空虚な墓はイエスが《身体具有的な復活》をされたことを証明するためのものであって、後になって形成された聖伝・伝説[Legende]である、すなわちほんとうにあったことではない、と主張した(「復活祭の出来事と復活祭の報告」 一九五六)。
 これに対してカンペンハウゼンは、いや実際にあったことだと主張した。
 「とにかくこの出来事 [Geschichte、空虚な墓] は全体として単に弁証論的な傾向をもった聖伝だと説明することはゆるされない。もし聖伝だとすれば、よりにもよって三人の女性たち(ユダヤの法によれば女性そのものは証人になる資格がまったくない、原著者) を決定的な証人に仕立てるはずはなかったであろうに。…もし空虚な墓の報告が《史実的・historisch》であるならば、イエスの処刑後の状況においては、敢然として墓まで進んでいったのは、始めはほんの二、三のイエスの仲間[女性弟子ら]にすぎなかったことはまったくもって理解しやすいことだ。…さらに最後の要素がとりわけこの伝承の確実性を保証している。アリマタヤのヨセフ[ユダヤ最高法院の議員で、ピラトからイエスの亡骸をもらいさげて、自分の地所の墓に埋葬した人物、後にキリスト者となる、マタイ二七・五七以下]という名前とイエスの埋葬についての告知とは《史実的》であるにちがいない。これらは簡単には取り除くことはゆるされない。…吟味することが許されることを吟味するならば、空虚な墓とその早期の発見についての報告は、私の考えでは、そのままにしておかなくてはなるまい。この報告はおそらく《史実》であろう」(「復活の出来事の経過と空虚な墓」一九五二、蓮見和男訳参照、強調引用者)。
 さらにアルトハウス[ドイツのルター派神学者]はこう主張した「復活宣教(ケリュグマ)は、もし《墓が空虚であったこと》が、すべての関係者[弟子たちとユダヤ教当局者ら双方] にとって事実として確認されなかったとしたら、エルサレムでは一日も一時も持ちこたえることができなかったであろう」(「教会の復活祭信仰の真理」、引用はパンネンベルクの「キリスト論要綱」から)。