建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ペテロへの預言  ルカ22:31~34

1999-33(1999/9/4)

ペテロへの預言  ルカ22:31~34

 (1)「『シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを祈って聞きとどけられた。しかし私はあなたがたの信仰がなくならないように、祈ってきた。だからあなたがひとたび立ちもどった時には、あなたは兄弟たちを強めてやりなさい。するとペテロは言った『主よ、あなたと共に投獄されることも、死ぬことも、私は覚悟ができています』。イエスは言われた『ペテロよ、あなたに言っておく、今日、あなたが、私を知らない三度というまでは、鶏は鳴かないであろう』」
 (2)それからイエスは彼らに言われた『財布も旅行袋もサンダルも持たないで、あなたがたを派遣した時なにか不足なものがあったか』、彼らは『何も』と言った。するとイエスは言われた『しかし今は、財布をもっている者はそれをもっていきなさい、旅行袋も同じだ。それらをもたない者は上着を売って剣を買いなさい。というのは私はあなたがたに言う<彼は咎ある者と数えられた>と書かれている言葉はこの私によって成就されなばならないからだ。事実、私に関わることはすべて、今や果てるのだ』。すると弟子たちは言った『主よ、ここに二つの剣があります』。イエスは言われた『それで十分だ』」。
 平行記事はマルコ14:26以下、マタイ26:30以下、
 (1)ペテロへの預言。
 サタンとイエスのどちらが使徒たちを獲得するか、の誘惑・試練が始まる。サタンのほうは使徒たちを試練にあわせてイエスから切り離そうと神に嘆願して、神の許可を得たという、31節。「あなたがたをふるいにかける」は使徒たちが真にイエスを信頼しているかどうかを試すこと、他方イエス使徒たちの《信仰がなくならないように祈つた》32節。「信仰につまずく」(マルコ14:27)ことがないように祈ったという意味。
 32節後半「もどってきたら」は、「回心、懺悔する」「もどってくる」の意味。第一に、ペテロがイエスを知らないと否認したのちに、ペテロは懺悔して、不信仰からまた復帰する、使徒として歩むということ。第二に、ヨハネ21:2によれば、ペテロら弟子たちはガリラヤにもどって「もとの仕事・漁師」になったが、再びその漁師の仕事をやめて弟子・使徒の務めに「もどった」と解釈できる。
 「あなたの兄弟たちを強めてやりなさい」は、ペテロに対するイエスの特別の委任をいっている(ヨハネ21:17「私の羊を飼いなさい」)、それは他の弟子たち・キリスト者を指導する職務への委任である(マタイ16:19)。
 これに対してペテロは答えた、投獄も殉教も覚悟してます、33節。ヨハネ13:37は「あなたのためなら私は生命でも捨てます」。ペテロの返事は少し熱狂主義的であるがイエスの預言はクールである。
 34節は有名なペテロ否認の預言「今日、あなたが三度私を知らないというまでは、鶏は鳴かないだろう」。マルコ14:30「今日、ほかでもなく今夜、鶏が二度鳴く前にあなたは三度私を否認するだろう」。第一に、ペテロの三度の否認はとてもすばやくなされるので、鶏が二度鳴くこともできないほど短時間に起きた、という意味になる。「鶏が二度鳴く」は一番鶏が鳴いて(午前2時頃)二番鶏が鳴く(前4~夜明け頃)間の短時間に否認が三度なされるという意味。しかし他方「鶏が鳴く」はギシャ・ローマ世界では「夜明けの時」を意味する。マルコでは2時間ほどの間にペテロは3度否認するが、ルカでは夜明けまでに3度否認する、少し意味が和らげられている。第二に、否認の内容。マルコとマタイではペテロは「イエスご自身」を否認した。全面否定で意味が強い。ここでは「イエスを知つていること」を否認した(フィッツマイヤー、バウアーの辞典)、マルコより否認が弱わめられている。
 (2)戦いの準備。
 イエスはかつての弟子たちの伝道旅行(9章)における装備とこれから起こる「戦いの装備」とは異なる、と言っておられる。ここでは、財布、旅行袋、靴などすべて持って行けと言われる。今や「試練の時」だからだ、36節「しかし今は」。抵抗すべき相手はここでは、人々による拒絶・迫害ではない、むしろサタンである。神により守られている時期は終り、使徒たちは試練にさらされる時期にある。この試練・誘惑に立ち向うには武器が必要である。
 37節の引用はイザヤ53:12の引用。37節下段「今や果てるのだ」は、イエスの地上的生命が今や果てる、とも、また「イエスに関することは、今や成就する」、さらに「今や日標に到達する」とも解釈できる、フィツマイヤー。
 使徒たちの戦いの激しさは「剣」についての言葉に現われている、36節。「剣を買いなさい」は決して「熱心党的な意味」ではない。また剣は現代社会における「武器」をさしていない(コンツエルマン、フィツマイヤー)。イエスは決して剣をもって戦うメシア(前2世紀ユダ・マカベウス、ローマと戦った「星の子・バル・コクバ)ではない、むしろ苦難するメシアである。「剣」は敵の攻撃に対する「対抗暴力」や自衛的武器ではなく象徴的意味をもつ。「剣」の象徴的表現はマタイ10:34「私は平和でなく、剣をもたらすためにきた」などにある。そこでは「剣」は対立、戦いの象徴である。ここの「剣」は「試練、特に迫害においてサタンに対するキリスト者の日常の戦いを象徴している」コンツエルマン。エペソ6:17「御霊の剣すなわち神の言葉」。ここでは「剣」の意味として6:18「御霊による祈り」を付加してよい。死ぬほどの拷問に耐えた高木専門仙右衛門の「祈り」が想起される。イエスの言われた剣の象徴的意味は、使徒たちによって《完全に誤解された》、それが38節「主よ、剣ならばここに二振りあります。イエスはそれで十分、と言われた」。「二振りの剣」は使徒たちが逮捕にくる者たちに「武装して抵抗しようとする誤解」からでた言葉。イエスの答「それで十分」はこちらにはメシアがついているのだから、二振りの剣で十分という意味ではない、むしろイエス使徒たちの「誤解をそのままにされ、誤解をとくことを拒絶されて」お一人で苦難を受ける決意をかためられた言葉、フィツマイヤー。イエスの、剣を否定する立場(マタイ26:52)はここでも同じである。