建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

(四)日清、日露戦争に対するキリスト者の態度1 日清戦争前夜

週報なしー44

(四)日清、日露戦争に対するキリスト者の態度1 日清戦争前夜

 キリスト教会の戦争責任のデーマは、明治期以後起きた戦争にキリスト者がどのような関わりをしたか、の問題をふまえることが不可欠である。ここでは、内村不敬事件に対するキリスト教指導者たちの反応、また各界からのキリスト教への非難と攻撃について取り上げたい。これは、日清、日露戦争に対するキリスト者の態度決定の歴史的な背景(明治24~26・1891~93年)であったからだ。同時に、この時期は日本の天皇制・国体へのキリスト者の屈伏開始の時期であった、と考えられる。
(一)内村不敬事件への反応。まず、日清戦争前夜の教会の状況、内村の勅語不敬事件に対する、キリスト教内部の反応について少し言及したい。この点は「真影・天皇への礼拝」、神社参拝に対するキリスト者の行動の基礎になるので重要である。日本のロシア正教会(日本ハリスト正教会)は勅語に敬礼しないのは日本古来の人情風俗に反する、皇室に対する忠愛の感情を損ねると内村を批判した(森田亮。飯沼次郎、前掲書)。
 プロテスタントの組合教会の、金森通倫(1859~1945。組合教会の指導者、著書「現今並びに将来のキリスト教」1891。新神学の指導者)は、事件直後内村から敬礼すべきかどうか相談された一人で、敬礼に賛成した牧師。
 「天皇はわが国の至尊、われらが主君なり。さればその至尊を代表する真影に対して敬礼を施し、天皇の御祖先に対し敬礼をなすは(宮中の賢所参拝)毫頭、宗教的の分子を含むにあらず、ただ君臣の義より生ずる外形の礼式なれば、われらキリスト教徒が信仰上、あるいは主義上において何らの妨害かあらん。・・・しかれども、政府よりこれらは爾後、臣民の奉載すべき神様なるにより、爾後臣民はこれに対して祈願祈祷せよとあらば、これすなわちわれらが信仰の自由を蹂蹈せらるるものなれば、いかに政府の命といえども、おのが主義を破りてこれに服従することあたわざるなり」(「キリスト教新聞」1891年2月。飯沼、前掲書)。
 この金森の立場は、論理的にすじが通り一見正しいように映るが、「普通の敬礼と宗教的礼拝との区別」が実は重大であり眼目である。第一に、金森は真影への敬礼、皇居の賢所参拝が「君臣の義より生じる外形の礼式」であって「宗教的分子を含まない」と主張するが、問題は実はここにある。後に政府も大正期の朝鮮総督府も、昭和期の文部省も「そのような見解」をもって神社参拝をさまざまな宗教者、国民に強要したからだ。真影への敬礼、賢所参拝には「宗教的分子は含まない」を宗教者が発言することは、よほどの「警戒心」が必要である。この見解は歴史的にはいつも「政府側の見解」であって、これこそ国家神道の本質的構造であるから(天照大神や歴代の天皇を祀る、非宗教である、神社のもとに、神仏基、国民が支配される)。神社参拝や天皇へ「礼拝」を「非宗教的な」「国民的儀礼」「忠誠心の表明行為」すなわち「敬礼」として宗教者国民に押しつけるのが、政府のやり方であった。金森や「五人の声明」が言っているところの神社参拝、天皇礼拝を「宗教的礼拝として強要する」ことは歴史的に決してなかった。これが「権力の狡知」であった。この点で金森は政府側の論理にすでに巻き込まれている。第二に、賢所参拝は、皇祖皇宗への礼拝、すなわち祖先崇拝、偶像礼拝である。二〇年後、朝鮮のキリスト者の神社参拝拒否の理由はこの点にあった。第三に、「君臣の義」の点で、宸署・天皇への敬礼をしない教員を解雇する事態は、敬礼しないキリスト者の信教の自由をすでに圧殺して信教の自由を「臣民の義務」の下に押しこめている。
 同年二月キリスト教の指導者、三並良、丸山通一(普及福音教会)、巌本善次(「女学雑誌」主筆)、押川方義(1849~1951、岩本と共に日本キリスト公会設立メンバー、北越学館東北学院設立、のち院長)、植村の五人は声明「敢て世の識者に間う」を発表した。
 「各小学校に陛下の影像を掲げ、これに向って礼拝をなさしめ、勅語を記載せる一片の神(紙?)に向って稽首せしむるがごときは、宗教上の問題としてこれを論ずべからずとするも、教育上において何の益あるかを知るに苦しむ。・・皇上は神なり。これに向って宗教的礼拝をなすべしと言わば、これ人の良心を束縛し奉教の自由を奪わんとするものなり。帝国意法を蹂蹈するものなり。我輩死をもってこれに抗せざるを得ず。しかれども影像を敬し宸筆に礼拝するは、必ずしも上のごとき意味合にてはあらざるべし。しかし政治上、人君に対するの礼儀としてこれをなすことなるべし。しからばこれ宗教上の問題にあらず」(「福音週報」1891年2月、飯沼、前掲書)。日本キリスト教会の植村正久の見解。「われらは今陛下を尊敬す。陛下に対して敬礼を表せずんはあらず。その尊影に対し勅語に対し、同一の精神に基づける敬礼をなしたればとて、これをもって偶像を拝するなり、十戒に背くことなりとは容易に断言することあたわざるなり。しかれども、このことたるや、その連帯するところ極めて広く、その関係はなはだ重大なる者あり。キリスト教徒は賢所において参拝するも不可なきや、キリストを信ずる海陸の将校士官兵卒は、靖国神社において神官の司る祭典に列なり、その祭りに与ることを得るや。これらの問題はキリスト教徒の明らかに決定するを必要とするなり。われらは新教徒として万王の王なるキリストの肖像にする礼拝することを好まず。なにゆえに人類の影像を廃すべきの道理ありや。我らは上帝の啓示せる聖書に対して低頭礼拝することを不可とす。なにゆえ今上陛下の勅語にのみ礼拝をなすべきや。・・われらは今日の小学中学などにおいておこなわる影像の敬礼、勅語の拝礼をもって、ほとんど児戯に類することなりといわずんばあらず。憲法にも見えず法律にも見えず教育令にも見えず、ただ当局の痴愚なる頭脳の妄想より起こりて、陛下を敬するのを誤り、教育の精神を害し・・われらはあえて宗教の点よりこれを非難せず、皇上に忠良なる日本国民として文明的の教育を賛成する一人として、かかる弊害を駁撃せざるをえず。これを駁するのみならず、中学校小学校よりこれらの習俗を一掃する派国民の義務なりと信ず。・・・(内村)氏らがその後に至りて俄然これを礼拝し、金森、横井(時雄)諸氏がこれを賛成したりと聞きて、深くその挙動をあやしまざるをえず・・」(植村雅久「不敬事件とキリスト教」1891年2月。「福音週報」飯沼、前掲書)。
 植村の見解は、金森のものよりも、プロテスタントキリスト者がキリストの肖像も礼拝するのを好まないから「なにゆえ陛下の勅語にのみ礼拝なすべきや」と切り込んでいる点が鋭い(これは発禁の第一の理由であろう)。また学校における影像や勅語への敬礼自体は法的根拠がなく「児戯に類する」と批判した点(発禁の第二の理由か)。さらに、キリスト者による賢所参拝、靖国神社が信仰的教義的に許されるかどうかとの「問題の指摘」も鋭い。これこそ後に(明治40年頃以後)争点となった事柄である。
 植村の見解で疑念、問題性を感じるのは、勅語への敬礼がかならずしも「偶像礼拝、十戒違反」にならないと判断した点である。これこそすでに触れた神社参拝で問題となった眼目であった。
 内村の勅語不敬事件は「敬礼と拝礼との区別がつけられなかった状況、躊躇、迷いによって」起こったのだ。先に言及したように、金森の場合、あまりに単純に両者を「区別」した。ポイントは現実に「敬礼と礼拝のどこが境界線なのか」である。次ぎに「誰が」それを区別する権限を持つのかである。朝鮮のキリスト者が神社参拝を拒否したのは、既述のように祖先崇拝、偶像礼拝であるとの理由からであった。これに対して神社非宗教論を主張したのは、弾圧した総督府側であった。神社参拝が「宗教・宗教的礼拝でない」と判断して参拝を「国民的儀礼、忠誠の表明」として「敬礼と礼拝を区別」したのは「当局側」であって、宗教書の側ではなかった。この区別こそ当局側の「狡知」であった。そして宗教者の側が敬礼と礼拝との区別・相違を受け入れたのは先の5人の生命にある「影像を敬し宸筆に礼するは必ずしも上のごとき(宗教的)意味合いにてはあらざるべし」なども含めて、彼ら宗教者が「弾圧」(内村という局所的弾圧)に屈した時点であった。この点では植村より危機意識を味わった内村の感受性のほうがシャープだった。「敬礼と礼拝とを区別する」権限を持っていたのは歴史的にみて、宗教界を管轄する当局の側のみであった。この区別を宗教者、キリスト者がなす時歴史的にはつねに「当局に屈服していく論理」でしかなかった。現実的にも敬礼と礼拝との区別をすることによっては、天皇制(影像や勅語への敬礼の強要、神社参拝の強制)とは闘えない。両者を区別したとき、勅語への「敬礼」を「宗教的分子含むにあらず」(金森)「宗教的意味合いにてはあらざるべし」(五人の生命)「偶像を拝するなりとは容易に断言することあたわざるなり」(植村)と判断した時点で、キリスト者天皇制に屈服し「国家神道のもとでのキリスト教」に転落した、といえる。(植村のこの論文は、発禁になった)。
 (二)キリスト教への排撃。「宗教と教育との衝突」。さて内村鑑三勅語不敬事件をきっかけとして、キリスト教界全体に対して各方面から「キリスト居とに加ふるに不臣、非愛国の悪名をもってこれを罵る」声があがった(山路愛山「現代日本教会史論」1906。山路愛山は、1864~1917。評論家、史家。メソジストの機関誌「護教」主筆)。ーー翌1892(明治25)年1月、熊本英学校のキリスト教徒の教員、奥村禎次郎が、校長就任式で、博愛主義を説き国家など眼中にない、と語って、保守主義の人々から激しく非難され、県知事によって解雇された。「これ第二の内村事件とも云うべきものなりき。国民的な反動の大潮は今や異教(キリスト教)を日本国内より一掃せずばやまざるの勢いをもってキリスト教会の壁に来たれり。・・・新聞雑誌競いて悪名をキリスト教徒に加えたり」(山路愛山、前掲書)。雑誌「天則」(加藤弘之発行)、真宗の雑誌「令智会」、「日本新聞」「九州日々新聞」などがキリスト教攻撃の記事を載せた。
 同年11月、井上哲次郎の論文「宗教と教育との衝突」(93年4月、単行本)は教育勅語の「忠君愛国」の精神とキリスト教は合致しないと、正面からキリスト教を攻撃した。井上は、第一に、教育勅語国家主義、忠孝主義であるが、キリスト教は世界主義、無国家主義であって、国家主義ではない。「勅語の倫理は、・・・身を修むるも国家のためなり、父母に孝なるも国家のためにして、我身は国家のために供すべく、君のために死すべきものなり。・・・勅語の主意は、国家主義なり。しかるにキリスト(耶蘇)教ははなはだ国家的精神にとぼし、また国家精神に反するものあり」(「教育と宗教の衝突」明治26年、武田清子「人間観の相克」1959)。第二に、井上は、キリスト教は忠孝を重んじない平等主義である、と主張した「勅語の精神もまた忠孝をもって最大の倫理となすものなり。しかるにキリスト教には忠孝の教えほとんどあらざるなり、キリスト教が直接忠君の道を教えたることは決してなきなり。・・・キリスト教徒は君父の上に天父(神)ありキリストありと説くがゆえに、忠孝主義に反す」。さらにキリスト教徒にとっては天皇も穢多も同等視されるのであって、ただその神のみを無上のものとする。キリスト教徒がしばしば聖影に対して不敬な所行をするのはこのためであると主張した。井上は批判した「横井(時雄)氏は同一の返答(「カイザルのものはカイザルに・・」マタイ22:13以下)をもってイエス(耶蘇)が忠道を教えたるの証(拠)となせり(これは横井の「キリスト教新論」1891、と思われる)。しかれどもイエスが単に税をローマ政府に納むべしと云いたるは、はたして忠君の主義とみなすべきものなるか、・・・またイエス愛国者たりし確証は一つもこれなく、かえって愛国者たらざりしことは種々なる点より弁明するを得べきなり」(山路愛山、前掲書)。ーー井上が学者的良心、特定宗教に対する公平な評価を放棄して、明治政府の意向にそった論文を書いたことは確かであろう(木下尚江)。客観的にみて井上の指摘した諸点は命中していよう。したがって井上に対する反論は、きわめて難しい。明治のキリスト教の指導者たちがこの時直面させられたのは、井上論文を超えて、勅語の背後にある天皇制そのもであった。すなわち、天皇制あるいはその具体化である勅語の説く「忠君愛国」の倫理をそれなりに受け入れて「天皇制、国家神道のもとでのキリスト教」に「とどまるか(転落するか)」、それともキリスト教の神のみを礼拝して「天皇礼拝」を拒否し、忠君愛国の倫理を批判・拒否して殉教するか、どちらかの道しかなかったのだ。残念ながら、明治のキリスト教指導者たちは「妥協の道」を選んだ。
 この井上哲次郎の論文に対しては、植村、内村、柏木らも反論した。しかし、彼らの批判は、根本的に「忠君愛国」を真に実現するのはキリスト教であるとの主張であった(省略、最も鋭い柏木の反論はいつか取り上げたいが)。
 井上論文とキリスト教からの反論との論争を、長野の松本でみていた25才ぐらいの木下尚江は指導的キリスト者の姿に失望したと語っている。論争から、8年ほどたった時点で木下はこう語った、「しかしてこの旧思想(忠孝)を打撃啓発する最も適当せる者はすなわちキリスト(耶蘇)教徒なるべしと思いければ、われらはひそかに刮目して彼らキリスト(耶蘇)教徒の数従の挙動を視たりしなり。なんぞはからん、薄志弱行なるわが国のキリスト・耶蘇教徒は、かの国粋保存的反動の波濤に得堪えずして頭をたれ辞を卑うし、百方日本の国体とキリスト(耶蘇)教との衝突せざることを弁疏(言い訳)し、もって国外放逐の災厄を免れんことを努めたり」(「元良博士の《教育と宗教の関係》を読む」明治33年2月、「木下尚江集」1965)、井上の非難に対する「キリスト・耶蘇教の先生らの態度がいかにも哀れで、見物人手に汗を握るばかり。《聖書には父母を敬えとあるからあるからキリスト教も孝行を奨励している》とか、《カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返せ》とキリストの言っているから、キリスト教も忠君を無視していないとか、すべてキリスト教の先生たちは精神も腰も萎縮しきって、全身膏汗を垂らし、額からも肩からも、血が滝のように流れている有様。歯がゆくてとてもみてはいられない。君(木下の従兄)は数々の雑誌を畳にほうりつけて《なぜ衝突していると明言して、立派に死んでくれないのか》と絶叫した」(「荒野」1909・明治42年、「キリスト教の使命」)。明治年間、木下はキリスト教社会主義の立場から「天皇制、忠君愛国の倫理を」最も激しく批判し「非職論」を主張した思想家である(後述)。明治のキリスト者指導者に対する私たちの評価が厳しいと感じられるかもしてないが、木下の評価をみれば、それほどでもないことになる。
 以上で、日清戦争前夜のキリスト教が排撃され社会的に孤立していた状況、そのもとでのキリスト教界の側のあせりと「忠君愛国の行動に走る下地」が明確になったと思う。