建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

平和の宣教  ルカ2:13~20

1996-34(1996/12/22)降誕節

平和の宣教  ルカ2:13~20

 「そして突然み使いのもとに天の大勢の軍勢が出現して、神を讃美して言った、『いと高きところでは神に栄光あり、地上では御心にかなう人々に平和がある』。
 み使いたちが彼らから離れて天に去ると、羊飼たちは互いに言った、
『さあべツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださった出来事を見てこよう』。そして彼らは急いで行って、マリアとョセフと、飼い葉桶に寝ているみどり児を見つけ出した。彼らはその児を見ると、幼児について自分たちに語られた言葉について報告した。それを聞いた人々はみな羊飼たちによって語られたことを不思議に思った。
 しかしマリアはこの言葉をみな胸にしまっておいて、心の中でじっと考えていた。そして羊飼たちは、自分たちが見たり聞いたりしたことすべてのために、神を讃美しほめたたたえながら、帰っていった」(レンクシュトルフ訳)。
 特に14節を取り上げたい。
14節の「いと高きところ」は、場所の意味で他にルカ19:38「天には平安、いと高きところには栄光があれ」。神の存在の言い換えの意味で、ルカ1章には「いと高きお方」として32、35、76節。「天の軍勢」は具体的にはみ使いの集団のこと(この用語は他に第二コリ10:4のみ)。
 み使いの讃美「いと高きところでは神に栄光がある」は、決して神に栄光が帰せられんことをといった願いではなく、むしろ《メシア的な歓呼》を示している。黙示録19:1の天の合唱では「救いと讃美と力とはわれらの神のものである」と歌い、他方では「大いなる淫婦」(ローマ帝国)に対する審判という特定の出来事「神が姦淫で地を汚した大淫婦を裁かれた」(19:2)が同時に告げられる。それと対比すると、ここでは、いと高きところで神に栄光を帰すことが新たに宣教され、それは具体的には地上における救い主の誕生を指し示している。それと共に、同時に新しいこと、大いなることが介入してくると告げられる。14節後半「御心にかなう人々の間に平和・平安がある」。
 「御心にかなう人々」はむろん神の御心にかなう人々のこと。これが誰を指しているかは一世紀の間論争されてきた。カトリックはヴルガタ訳(五世紀、ラテン語訳)「善意の人間たち」に依拠して、神の御心にかなうように全心で努力している人々と解釈した。しかしこの解釈によると、神の恵みの行動が人間の行動に依存することになってしまう。また死海文書を手がかりに、終末時の救いを受けとるよう神ご自身が自由な決断においてお選びになった人々、終末時の教団という解釈もある。結論的には、レンクシュトルフは「特にイエスの活動に心を傾ける人々」と、ディベリウスは「神に選ばれた人々」すなわちキリスト者を意味するとみる。
 ここの「平和・平安・エイレネー」は「ローマの平和」(ラテン語パックス・ロマーナ)を想起させる。皇帝アウグストは碑文によれば戦いを終らせ、地と海とのもとで平和を享受する「救済者」として崇められているという(ディベリウス前掲論文)。その「平和」の実態は、被支配者に対する人口調査による重税と力による抑圧政策であった。
 旧約聖書においては、メシア的王を「平和」と呼ぶ箇所がある。ミカ5:1以下(これはマタイ2:6に引用されているが)、の3、4節「彼・イスラエルの支配者は、立ち上がってヤハウェの力とその神のみ名の栄光によってその群れを養う。彼らは安らかに住む、なぜなら彼の力が地の果てまで及ぶから。彼は《平和の主》となろう」(関根訳)。
 もう一つはイザヤ9:5以下「一人のみどり児が私たちのために生まれた。ひとり子が私たちに与えられた。その名は《平和の君》(ヘブル語で、サル・シャローム)ととなえられる。その支配は大いなるものとなり、その《平和》は限りなく、彼はダビデの位に座してその王国を治める…」(ルター訳)。
 福音書はイエスを「柔和な平和の君」と述べている。ゼカリア9:9~10「見よ、あなたの王はあなたのところに来る。彼は義なる者、救済者であり、柔和であって(ルター訳では「貧しく」)、ろばに乗る。…彼は諸国民に《平和を告げ》、その支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」(マタイ21:5以下参照)。
 ここでの「平安・平和・エイレーネー」は宗教的な「平安」ばかりでなく、社会的政治的な意味での「平和」を意味しているのではないか。
 旧約聖書が語るメシア的な王「平和の君」はすぐれてダビデ的な政治的な支配者の意味合いが濃厚である。これに対して、新約聖書の語る「平和」は「苦難の僕」(イザヤ53章)によって成就された、と述べている。
 新約聖書が語る「平和」で忘れてはならないのは、《平和がキリストの死と結びつけられている》点である。
 エペソ2:15~17「キリスト・イエスは私たちの《平和》であって、二つのものを一つにされ、隔ての障壁《敵意をご自分の肉において取り払われた》。キリストはさまざまな規定をもった戒めの律法を廃棄なされた。彼は《平和を樹立しつつ》二つのものを一人の新しい人間に創造し、また二つのものを《一つの肉において十字架をとおして神と和解させる》ためであった。《キリストはご自分の肉において敵意を減ぼされたからである》。そしてキリストは到来されて、あなたがた遠い者たちに《平和》を、また近き者たちに《平和を宣教されたのだ》」(アルトハウス訳)。
 人間同士、ユダヤ人と異邦人、近い者と遠い者、民族と民族、国家と国家の平和を実現させるには「神との和解、すなわち神との平和」が不可欠である。これが第一のポイントである。神との平和を実現したのがキリストの十字架である、「一つの肉おいて十字架をとおして神と和解させる」16節。そればかりでなく、第二のポイントとして、キリストの十字架は人間の、集団の、民族の、国家の間の「敵意をご自分の肉において滅ぼす」行為であった、16節。ここでも平和はキリストの死と結びっけられている。コロサイ1:20「ご自分の十字架の血によって平和をつくられた」。
 17節「キリストは到来されて《平和を宣教された》」は、イザヤ57:7に由来している(また「あなたがた遠い者たちに、平和を、また近き者たちに平和を宣教された」もイザヤ57:19に由来する)。イエス・キリストの「平和の宣教」が生前のものをさすのか(「あなたの敵を愛しなさい」「幸いなるかな、平和をつくり出す人々」)、メシアなるイエスの誕生の時点での、地上における「平和」の到来を意味しているのか、をエペソ書は問題にしていないが、キリストによる救いの業全体を関連づけている。
 キリスト者、教会が「平和を宣教する」時、平和と結びつけられるこのキリストの十字架は、過去の事実であるばかりではなく、今日においても働きかける力をもっている。十字架は神との和解・平和が人間の平和の根源であることを絶えず認識させるからである。十字架は敵意の滅亡、隔ての障壁・排除の論理イデオロギー対立の克服として作用するからである。教会は平和をつくりだす力をキリストの十字架から絶えず与えられるといえる。教会は、主である「キリストが到来されて平和を宣教された」ことを決して忘れてはならない。そして教会はキリストの平和の宣教を受け継ぎ引き継いで「平和の宣教・平和の福音」(エペソ6:15)に取り組むべきである。教会はその平和の宣教「平和の福音」において、今なお働き作用し続ける十字架の力、平和を実現する十字架を信じるべきである。
 旧約聖書において「平和の君」(イザヤ9章)はすぐれて「政治的なメシア」のイメージが強いが、新約聖書における「平和の主」(第二テサロニケ3:16)は、ご自身の十字架の苦難と死において神との平和を実現し、人間存在の本性に根ざす平和の破壊者、敵意の滅亡のために死にたもうたおかたである。教会はこのクリスマスにおいて「地上には御心にかなう人々に平和がある」と告げられた。この時、ご自身の十字架の死によって「平和を宣教なされたキリスト」を改めてあがめるべきである。