建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅱ-旧約聖書における絶望と希望-10 ヨブ記②

(ヨブの希望についての五つの弁論、続き)
第三の弁論
  「おお大地よ、おまえは私の血をおおってくれるな。
   わが叫びにけして休息の場を見い出すな
   見よ、今すでに天にわが証人があり、わが弁護者は高き所にある。
   その者こそわがパートナーとなり、私を執り成す者である。
   わが目は神に向って眠ることなく見開かれている。
   彼は神と人の論争を調整してくれる。
   人間とパートナーとの間にあることをも」(一六・一八~二一)
 ここには希望という用語は出てきていないが、この箇所の背後には友人たちが「秩序」という冷たい考えに基づいて、神の前でヨブの生きる権利を否定しようとした論議が偽りであるとの、ヨブの見解がある。そしてヨブは友人たちが自分に向って頑なに主張した、「敬虔な者にのみ希望を与える神」に逆らって、神に対して自分の権利、正義が不当に侵害されたとの叫びを発している。
  「大地よ、私の血をおおってくれるな」(一八節)は、カインに殺された「アベルの血の叫び」を想起させるが(創世記四・一〇、ヘブル一二・二四)、これは不当に侵害された自分の権利の回復を求める法的正義の遂行を求める叫びである。ヨブは自分が叫ぶのをやめることのないように願った。この叫びをやめたら、正義への問いがなくなってしまうからだ。しかし法廷で真実を明らかにするためには、訴追された者の弁論だけでは十分ではない。その弁論の真実さを証明する証拠、証人が不可欠となる。ここでの「証人」「わが保証となる者・弁護者」とは、自分の主張、正義を承認してくれるとヨブが確信している「神」、被造物を再び顧みる創造者、神である。この証人となられる神は、ヨブの「保証となる者」であるが、それはまぎれもなく他なる神、神の隠された、別の姿である。この「他なる神」が今ヨブに「敵対し訴追する神」に向かつてヨブのために弁護してくれる。他なる神は今地上にはおられないで「天、高い所」、超越的な世界におられる。ヨブはかつては地上ではない陰府の世界を避け所としようとしたが(一四・一三)、ここでは救いを天上の世界に求める。ヨブは「希望の翼をかりて」(詩一三九・九「曙の翼」はクラウスによれば「希望の翼」と訳せる)、天上にいます希望の神に舞い上がったのだ。

第四の弁論
  「私は何に希望をいだくのか。
   もし私が陰府をわが家とし
   暗闇にわが寝床をのべ
   墓に向って、あなたはわが父と呼び
   うじに向って あなたはわが母 わが姉妹と言うならば
   私にとってどこに《希望》がなおも存在するのであろうか
   これは陰府の関門に下っていけ」(一七・一三~一六、ホルスト訳)
   塵(ちり)の上にも《休息がある》」(浅野訳)
 用語的には「望む・キーヴァー」と「希望・ティクヴァー」が二回出てくる。しかしこの箇所でヨブは「希望について否定的に言及した」との解釈がほとんどである。ツィンメリ、ヴォシッツはこの箇所を取り上げていない。ホルストの註解は否定的な言及とみる。「ここでは、死の現実を前にしたヨブの希望と幸せとの可能性がどこに認められるか、という問いが取り上げられている。陰府へと下る道は、けして希望をともなうものではないし、幸せは『生ける者の国に』しか見い出せない」(詩二七・一三)。「幸せ」については、一五節後半「誰がわが希望を…」の希望を、ギリシャ語訳に従って、多くの訳が「幸せ」と訳すため。原語はやはり「希望」。
 ヴェスタマンは希望と死の接触を強調する、
 「『希望と幸せは私と共に陰府に下っていくのだろうか。あるいは私たちは共に塵に向って降りていくのだろうか』(ストイエルナーゲル訳)。この一六節をとおしてヨブの希望の対象はひときわ強調されている。…希望は人間の死の運命に関与するものとしてである。希望はまさしく端的な人間存在に属しているため、人間の死への道にも結びつけられるのだ。人間存在の限界はここでは、希望が《死の彼方にまで及ぶものではない》という途方もない仕方で表現されている。私は希望を墓の中に携えていくのだ」(前掲論文)。このようにヴェスタマンは希望を人間存在の運命共同体として把握し、明らかに死後の世界には成立しないものとみなしている。
 他方この箇所をヨブが希望について「肯定的に語ったもの」とみることができる。その場合、一つは一六節後半(口語訳では「われわれは共に塵に下るであろうか」)の訳が問題となる。ポイントは「ネーハト」(「われらは下る」)を「ナハト」(安息、休息の意味)に読み代えること(浅野順一、注解。関根正雄、注解。ゲゼニウスのレキシコンは「ナハト」を死における安息の意味で一六節後半をあげている)。原文を素直に読むとこうなる-浅野訳「その時ともに塵の上にて休息あらん」。関根訳「もし塵の上にともに安息があるならば」。このような翻訳に基づいて、関根正雄のみがこの箇所を希望についての肯定的な発言とみる。
 「一四・一三以下ですでに陰府を新たに恵みの場所として述べたヨブは、ここで違った角度から陰府に再び望みを託していると解したいのである。…ここでヨブは陰府を自分の住みかと定め、暗闇に安んじ、陰府を父と呼び、うじをも母や姉妹として親しむ時、ほんとうの光が与えられるという。ルターのいう《地獄への放棄》がここに語られているのである。自分を最も低い所におき、そこに安息を見い出すことを言っているのだと思われる」(注解)。

第五の弁論
  「しかし私は知る、《私のゴーエール・わが義を守る者》は生きておられる。
   最後の方として彼は地の上に立たれるであろう。
   私の皮がこのようにしてはがされたのち、
   私の体なしに私は神を見るであろう。
   私は自分で彼を見るであろう
   けして見知らぬ存在としてではなく私の目は彼を見るであろう」(一九・二五~二七 シュトラウス訳)
 ここでは、希望という用語は出てきてないが、この箇所はすでに言及した一六・一八以下の「血の叫び、わが証人」とも、また一七・一三以下の、陰府へのヨブの希望とも関連している。ここでヨブはすでに自分が死んだ者であるかのように語っている。ヨブがここで問題としているのは、ヨブの苦難の意味などではなく、すでに失われたとみえる彼の義の回復そのものである(フォン・ラート)。言い換えれば、眼目は神の前でのヨブの義、ヨブの生きる権利、失われたと思われるヨブの権利回復である。しかもその権利は神をとおしてしか確かなものとはならないし、神をとおしてしか実現しないのだ。
 ヨブは今、イスラエルの法的な伝統における不正によって殺された死者になり代わって殺人者の死をもって復讐することをとおして、死者の死を贖い、死者の権利回復をする「血の復讐者・ゴーエール」という見解(民数三五・一九)に依拠して発言する。ゴーエールはこの他、死去した者の近親者が死者の財産を回復し、死者の妻と結婚してその家を再興する者の意味。 ルツをめとったボアズはゴーエールであった(ルツ四・四以下)。
 「ゴーエール」の翻訳は、ウルガタ・ラテン語訳が「贖う者・redemptor」、ルター訳「贖う者・Erloeser」、ベルトーレット、デューム「血の復讐者」、ワイザー「解放者」チューリッヒ訳聖書「弁護者」、英訳「贖う者・Redeemer」、浅野訳・関根訳・協会訳「贖い主」など。
 マルクス主義哲学者エルンスト・ブロツホは、「ゴーエール」のもつ本来の意味、殺害された者の権利回復をなす者、すなわち「血の復讐者」の意味合いを欠落させたラテン語訳、ルター訳などの「贖う者」という訳語に強く反対している。そしてブロッホ自身はこう翻訳している「私は知る、私の《復讐者》は生きており、最後の者として塵の上に出現するであろう」(二五節)(「キリスト教の中の無神論」竹内・高尾訳)。私たちは、ストラウス訳の「わが義を守る者」はなかなか適訳で、失われ奪われたヨブの義の回復の意味合いをこめて「わが義を回復する者」との訳語がよいと考える。ブロッホは、また地上で奪われたその者の義・正義の回復、その者の奪われた生命の回復についても語っている。「不死性への衝動は、長命や地上での安らかな生活への古い願望から来たのではなく、むしろヨブと預言者たちから《義への渇望》から来たのである」(「希望の原理」後述)。
 このヨブのゴーエール、血の復讐者、ここでの「贖う者」は、神以外のどこにも存在しない。ヨブは自分の死んだ後に、失われた自分の権利、義しさのために立ち上がりたもうゴーエールのいますのを確信するに至ったのだ。
  「神はあらゆる生命の所有者である。何らかの暴力行為によって生命を脅かされる場合、それは神の直接の利害にかかわることである。そのことをヨブは知っており、厳粛に神に向って、神に対して訴えるのである」 (フォン・ラート)。
 「ヨブ記の驚くべき点は、…神の怒りの炎の中で、耐え抜くという事実にある。神が敵として扱いたもうヨブは、その闇ともっとも深い深淵のただ中にあって、動揺することなく、何か一段上の法廷や彼の友人たちの語る神に控訴するのではなくて、自分を打ちのめすこの神ご自身に控訴する。ヨブは、自分を失望させ絶望に陥れる神に信頼し、自分の主張をやめることなしに、自分の希望を告白し、自分を断罪する方を弁護者とする」(ロラン・ド・ピュリ「反乱の人間-ヨブ」、バルト「キリストの証人ヨブ」井上良雄訳から引用)。
 「ヨブは、神の支配の暗黒が彼にもっとも鋭い仕方で出会うところに、近づきつつある死と陰府の中での彼の存在の間に、目を注いでいる。《そこでこそ》彼を守りたもう神に接し、そこでこそ そのゴーエール(弁護者・復讐者・贖う者)としての神を自分の目で認めるのである」(バルト、前掲書)。
 一九・二六でヨブは「私は《肉を離れて、体をむきだしで》神をみるであろう」と語るが、これは復活や永遠の生命を考えている、と誤解してはならない。むしろここでもヨブは一七・一三以下と同様に、陰府での出来事として「肉を離れて、体をむきだしで」を考えている。贖い主の贖ないが起こるのは陰府においてである。ヨブの贖い主は陰府の「塵の上に立つであろう」。したがって「ヨブは問題を死後の解決に委ねたことになる」(関根、注解)。しかもヨブがそう決心したのは今ここでである。ヨブが絶望のただ中にあって、自分の失われた希望について文句を言いながらも、神ご自身にはなおも隠された可能性が残されていると告白したのは、今においてだからである(ツィンメリ)。神は人間の創造者として失われたその人間の権利回復を実現される、法的なゴーエールすなわち「最も近い親族」(ルツ二・二〇)、ヨブの「味方」(一九・二七)として出現される。すなわち最初の弁護者が事態を処理できない状況で法廷に登場する、別の法的な代理者である。ヨブにおいては現在、友人たちが主張するような「守護を与えるという伝承の神と、彼の体験した破壞の神との鋭い分離、両者の併存がある。…そして保証する者(一六・一九)、贖う者(一九・二五)である神が、敵なる神に対して勝利を得る」(フォン・ラート)。これがこの箇所でのヨブの希望の形である。この希望の形は友人たちの主張する人間が自分の行為として実行できる希望(自分で持つことができる希望)でも、自分の敬虔や忍耐などの功績に対する見返りとして要求できる希望でもなく、さらに神による秩序の保持という見解によって理解される希望の形でもない。むしろ神が神でありたもう存在として被造物への約束を破ることができないゆえに、神にのみ残されている希望として理解されるものである。
 「ここに旧約聖書の希望の決定的な特質が見い出される。旧約聖書によれば、希望は神がその活動、賜物、約束によって唯一の主とされ、他方人間が《神の自由な賜物として》のみ《未来に与る》、それを唯一の場としている。したがって人間の希望が中立的な世界観やある世界観によって支えられる(たとえそれがどれほど敬虔なものであろうと)、究極的には単に人間の態度に依拠するにすぎない場合には、その希望は不安定な土台の上に築かれたものとなり、やがて危機に直面すれば、砂の上に建てられた家のように、打ち砕かれてしまうであろう」(ツインメリ)。