建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

エマオの弟子たち  ルカ24:28~27

1997-13(1997/3/30)

エマオの弟子たち  ルカ24:28~27

 「やがて彼らは目指す村に近づいた。そしてイエスがなおも先に旅を続けられる様子をされた。そこで二人はこう言ってイエスをせきたてた『私たちのもとに滞在してください。まもなく夕万で、もつ日も傾いていますから』。そしてイエスは彼らのもとに滞在するために、中へ入られた。イエスが彼らと共に食卓について、パンをとって感謝し、それをさいて彼らに手渡された。すると彼らの目が開かれて、その万がイエスだとわかった。するとイエスは彼らからかき消えてしまった。そして彼らは互いに語りあった。『イエスが途中で私たちに向って語りかけ、私たちに聖書を説き明かされた時、私たちの胸がうちで熱くなったではないか』。そして彼らは時を移さず立ち上がって、エルサレムに引き返した。…(35節)そして二人は途中で起きたこと、またどのようにしてパンをさくことでイエスが彼らによって気づかされたかを物語った」(レンクシュトルフ訳)。
 この箇所のポイントはいくつかあるが、福音書におけるイエスの復活顕現に対して「伝説的」と規定して史実性を疑問視する立場がある ハンス・グラース(「復活日の出来事と復活日の報告」)やパンネンペルク(「キリスト論要綱」)は福音書のイエスの復活顕現に対して「伝説的で、史実でない」という。その根拠は、復活されたイエスの「身体具有性」にあると。復活したお方の「身体に触れる」というポイントを強調するのは、ルカ24:36~39、ヨハネ20:24以下などである。パネンベルクは、行伝9章、第一コリント15章を「復活の典拠」にし、福音書の記事をはずしている。
 さてこのエマオの物語の頂点は、家の中での食卓のシーンである。ここでは「イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いておられたが、彼らの目がくらまされていた。それでイエスに気づかなかった」点(15、16節)が前提とされている。二人がどのようにして「イエスに気づくか」が第一のポイントである。
 この見知らぬ旅の同行者との交流は二人にはとても貴重なものに思われて、この人とのもっと長くいたいと望んで、その人に滞在するようにせがんだ。食事が始まる。するとイエスは客ではなく、その家の主人の役を引き受ける、すなわち「食卓においてパンをとり感謝の祈りをしてそれをさいて二人にわたされた」(30節)。ところがその動作は最後の晩餐においてイエスがなした動作と全く同じものであった、ルカ22:19前半。この時二人は忽然として《目が開かれる》そして《その見知らぬ旅人がイエスである》と気づいた(31節)。どのようにして、二人がイエスを認識したのには二つの原因がある。一つは、旧約聖書のメシア預言の説き明かしがある(25~27節)。もう一つの原因は最後の晩餐、生前の食卓の交わりにおけるパンをさくイエスのふるまいが、今ここでパンをさく人をイエスと認識せしめた点である(31、35節)。かくて二人に《イエスが今も生きておられる》ことを認識させる、というイエスの目的が達つせられた。「エマオの弟子たちは復活の記事のうちでもっとも美しい箇所である」といわれるが(グラース、ヴィルケンス)、これはこのポイント、二人がイエスに気づくという点にある。
 第二の大きなポイントは、その瞬間イエスの姿が二人の前からかき消えてしまう(31節後半)という点である。「イエスの姿が消えてしまう。もはや彼らには必要ないからである。イエスは消えたが彼らは不安を感じることも、残念がることもない。むしろ彼らは報告のためにエルサレムにとって返す」(ヴィルケンス「復活」)。
 この箇所で「復活のイエスの姿が消える」というのは、別の意味できわめて重要で、復活のイエスの「身体性、身体具有性」について考える時、旧約聖書の説き明しや食卓でのパンさきにおいては、復活者の身体性は明らかであるが、その姿が突如として消えるというは、どうみても「通常の姿」すなわち「地上的な身体性を具えていないこと」を示している。ここでの「復活のイエスの存在」は、身体性をもちつつ身体性をそなえていない不思議な、謎的な姿である。イエスの姿消失についてのヴィルケンスの説明「もはや彼らには必要ないから」は理由づけとして十分ではない。むしろ「イエスの姿消失は復活のイエスの《蘇生の否定》《地上的な身体具有性の否定》」として読むべきである。すなわちこの箇所の関心は「復活したイエスの身体性の強調」(24:36~39)ではなく、むしろ復活したお方の顕現が弟子たちの師であり王であるイエスと同一である点である。復活したかたがイエスと同一であるとの認識は、一方でイエスの身体性、旧約聖書の説き明し、イエスのパンさきの姿をもってなされたが、他方では復活したお方は「地上的な身体性をもたない存在」として、もはや地上のイエスとは「異質の存在」である。復活したイエスは「弟子たちの目が開かれて」(31節)初めて認識可能な存在である。言い換えると「まぼろし現象・Vision」である パネンベルクが強調するダマスコ途上のパウロのイエスとの出会いも「まほろし現象」である。パウロが出会ったのは「光とイエスの声のみである」。パウロは「キリストご自身の栄光の体」について述べている(ピリピ3:21、引用)。「すべての顕現記事が一致して報道しているのは、弟子たちがイエスを生きたお方として見たという点である。彼らはイエスがこの世の生にもどされたのではなく、むしろイエスは神のあの栄光の中に生きておられる、その栄光の中でイエスは出現されたといっている」(モルトマン)。まぼろし現象を受け入れないのは歴史学の貧困さ、浅さであって、けして「伝説的」だとか「史実性を疑う」といつものではない。ここでのイエスの復活は決して史実でないとか、伝説的だとは断定できない。むしろ私たちは、ここで最古の復活物語、「復活したお方の栄光の体」に出会っているのである。
 さてこの記事でもう一つ重要な箇所は「二人は互いに語りあった『イエスが途中で私たちに向って語りかけ、聖書の説き明かしをされた時、私たちの胸がうちで熱くなったではないか』」(31節)である。この箇所をイエスの復活顕現が「信仰者の内面的体験であった」(ブルトマンなどの立場)というふうに歪曲することは許されない。むしろ逆に復活顕現という私たちの存在の、いわば外側において起きた出来事が、弟子たちに「胸のうちの燃焼」を引き起こしたとこの箇所は述べている。これがバルト、モルトマンの見解である。しかも、この燃焼が復活のイエスの「聖書の説き明し」、旧約聖書におけるメシアの苦難についての解釈を《聞いている時に起きた体験》である点は重要である。その説き明しは信仰者の知性に働きかける作用であって、現代の私たちにもこの点は妥当すべきである。イエスの十字架、復活は「目も耳もくらまされている状態」では認識できないのであるが、他方「目も耳も開かれての認識」つまりひときわ信仰者の知性、理性に作用する体験だといつことである。 イエスの死に失望したクレオパ父子が「胸のうちの燃焼」を体験して、いてもたってもいられず、すぐさまエルサレムにとって返した、彼らの失望から希望への変化は、印象的である。
 彼らがエルサレムにもどったのはペテロらに自分たちの体験を語るためである「二人は途中で起きたこと、またどのようにしてパンをさくことでイエスが自分たちによって気づかされたを物語った」35節。エマオにはイエスの復活顕現をきっかけに教会が生まれたという(ヴィルケンス)。クレオパ父子も「主の復活の証人」となったのである(行伝1:8)。この物語を読んでいる私たちに求められるのは、私たち自身も「主の復活の証人となる」ことである。