建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ピラトによる審問  ヨハネ18:33~38

1998-13(1998/3/29)

ピラトによる審問  ヨハネ18:33~38 

 「ピラトは再び総督官邸に入り、イエスを呼び寄せて言った『お前はユダヤ人の王なのか』。イエスは答えられた『あはたは自分でそう言われるのか、それともほかの人たちが私のことをそうあなたに言ったのか』。ピラトは応答した『私をユダヤ人だと思っているのか お前の国の民と祭司長たちがお前を私に引き渡したのだ。お前は何をしたのだ』。イエスは答えられた『私の国はこの世のものではない。もし私の国がこの世のものであったならば、私の部下たちは私をユダヤ人に引き渡すまいと戦ったであろう。しかし私の国はこの地上のものではない』。そこでピラトが言った『ではお前はやはり王なのだな?』イエスは答えられた『そうだと言うのはあなただ。私は真理について証するために生まれそのためにこの世にきたのだ。真理から出た者は誰でも私の声に耳を傾ける』。ピラトは言った『真理とは何か』。ピラトはそう言った後、またユダヤ人のところに出ていって言った『あの人には何の罪も見出せない。…』」。
 最高法院は《なぜ》イエスを総督ピラトに渡したのか、18:28。最高法院は「メシアとの告白をした」イエスに瀆神罪で死刑の判決を出した、マタイ26:66。瀆神罪には石打の刑が課せられる定めがあった、ヨハネ18:32。これはユダヤの宗教的な領域に属す判決・裁判であり、その裁判権はサンヘドリンが持っていた。しかし彼らは《死刑の執行権をもっていなかった》ヨハネ18:31。死刑の執行権は総督にあった。それで彼ら・サンヘドリンはイエスの総督への引渡しをも決定したのだ、マタイ27:2「イエスを殺す《決議》をした」。この「決議」こそ総督への引渡しと総督によってイエスを死刑にするための「共同謀議」であった。しかしながら、総督はユダヤ教の「律法に違反した宗教犯」への告発をそれ自体では取り上げて審判するとは思われない。ヨハネ18:31。総督は「政治的な犯罪、反ローマ的暴動の謀議、反乱罪などにしか関心をもたないこと」が始めから予想されたからだ。そこでサンヘドリンは「宗教犯」を「政治犯」として「引き渡した」。というのはイエスの「メシア告白」には「王権」が含まれていたからだ。「見よ、心のやさしいあなたの王がおいでになる、ろばに乗って」マタイ21:5。したがって「ユダヤ人王」という表現(4福音書共通)は、メシアすなわち「イスラエルの王」のローマ人的な言い回しであって、宗教的な要素のみならず、基本的にすぐれて「政治的」である。それのみならず、ルカ伝はイエスの活動が「政治的、反ローマ的である」との偽証をしるしている。
 イエスが『民衆を惑わし、カイザルに税を納めることを禁じ、自分がキリストすなわち王だと言っているのを確かめた』と言ってサンヘドリンは告発し始めた」ルカ23:2。納税間題については、イエスは明確に納税せよと説いた(マタイ22~23以下)のでこれは偽証である。さらにイエスの宣教活動、宗教運動を「この人はユダヤ全体に教えを説くことで民衆を扇動している」と強引に意図的にイエスの運動を《反ローマ的政治運動》であると「ねじ曲げようとした」ルカ23:5。
 問題となるのはイエスの「メシア告白」すなわち「ユダヤ人の王」ヨハネ18:37。これは明らかに「政治的事件」になりうるが、しかしピラトはサンヘドリンの告発の罪状をイエスに見出せなかった、ピラトはイエスの「王たる告白」に《特異な宗教性》を感じ取ってとっている。このポイントをヨハネ伝が伝えている、ヨハネ18:36~38。特に36節「私の国はこの世のものではない。もし私の国がこの世のものであったら…」において「国・バシレイア」は「王国」「王的支配」を意味する政治性をもち、「《私の王国はこの世のものではない》は、超越的な世界からのもので、地上的な存在領域と明確な対照をなしている」こと。「《もしこの世のものだったら》、この世的手段、武器をもって反抗する」ことをイエスははっきり否定している。ビラトはこれを感じ取った。
 サンヘドリンのイエス告発「反ローマ的政治的扇動者」は総督がイエスを「政治的な犯罪者ではない」(ルカ23:4、ヨハネ18:38)「無害な宗教的夢想家」(ブリンツラー)と判定したことで挫折した。
 にもかかわらず、ピラトはイエスに死刑判決を出した。ピラトがなぜ政治的犯罪者ではないと判定したイエスに十字架刑を宣告したか、それは、ユダヤ人らの「脅追に屈した」からであった、とヨハネはいう、ヨハネ19:12~16「ピラトはイエスを赦そうと試みた。しかしユダヤ人らは叫んだ『もしあなたがこの人を赦すならば、あなたはカイザルの友(忠臣)ではない。自分を王とする者は誰でもカイザルに反抗する者だ」。…ピラトはユダヤ人らに言った『見よ、あなたがたの王だ』。彼らは叫んだ『かたずけろ、かたずけろ、彼を十字架につけろ』。ピラトが言った『おまえたちの王を私が十字架につけてよいのか』。祭司長らは答えた『私たちにはカイザルのほかに王はいません』。そこでピラトはイエスを十字架につけるために彼らに引き渡した」。
 ピラトがイエスを赦すならば、ピラトはカイザルの友、忠臣ではない、は「ピラトをカイザルに密告する」とのユダヤ人らの脅迫であり、これは十分効果があったろう、プリンツラ一。アケラオの追放も密告によって起きたから。ピラトはイエスを釈放して自ら皇帝の敵対者として告訴されるよりも、自分の身の安全をとったのだ。
 ピラトによる「死刑判決の宣告」は明記されていないが、「ピラトはイエスを死刑にするために彼らに引き渡した」(ヨハネ19:16、マルコ15:15、マタイ27:26など)が死刑判決の言い換えだと解釈されている。つまりピラトはサンヘドリンの死刑判決を「追認して、死刑執行命」を出したのではなく、ローマの法に照らして「反逆罪」で処刑したのだ。
 「十字架刑」は国家反逆罪の者、その扇動者に課せられた「極刑」であった。モルトマンはいう 「イエスのメシア要求(告白)は明らかに政治的にみればきわめて危険なものであった。イエスの罪状書き(「ユダヤ人の王」マタイ27:37)は政治的な犯罪を明記している。イエスのメシア要求は、ローマの支配に直接抵触するような犯罪であった。つまりそのメシア要求はローマの法廷によって処断されねばならない謀反を意味していた。ユリウス法典によれば、王たろうとする要求は反乱の原因となるかぎり、死に値すると宣告された」。
 他方ユダヤ教の伝統では「木にかけられた者は神から呪われた者である」(申命21:23)であるから、イエスの十字架刑は「呪われた者の死」であったことになる(次回)。
 サンヘドリンがイエスを十字架刑で殺そうとした「意図」もここにある。かくしてイエスはサンヘドリンによって瀆神者、総督によって反乱指導者、ユダヤ教によって神に呪われた者とされたのだ。