建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

パウロへの顕現  第一コリント15:8~10

2001-26(2001/6/17)

パウロへの顕現  第一コリント15:8~10

 「ところで最後に、キリストは月足らずの者同然の私にも現われた。私は使徒たちのうちで最も小さい者で、使徒と呼ばれるに値しない。それは私が神の教団を追害したからだ。しかも神の恵みによって現在の私はある。また私に対するその恵みは無駄にはならず、むしろ私は彼らのすべての者よりも多く働いてきた。しかしそれをなしたのは、私ではなく、むしろ私と共にある神の恵みである」。
 ここでダマスコ途上で回心してキリスト者となった記事、行伝9、22、26章にある復活のキリストとの出会いについて、言及したい。パンネンベルクは、第一コリント15:1以下とこの箇所を連動させて取り上げた。
 「さてサウロ(パウロ)は主の兄弟たち[キリスト者ら]に向って、なお威嚇と殺害とに息巻いて、大祭司のもとに行って、ダマスコの諸会堂への書簡を求めた。 彼がその地で『道』に帰依する者たち[キリスト者ら]を見つければ、男であれ女であれ、縛ってエルサレムに連行するためであった。
 その途上で彼がダマスコに近づいた時に起きたことである。 突然、天からの光が彼を照らした。彼は地に倒れて『サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか』という声がするのを聞いた。彼は言った『主よ、あなたはどなたですか』。するとその声は言った『私はあなたが迫害しているイエスだ。さあ、 立ち上がって街に入りなさい。あなたがなすべきことが語られよう』。彼と共に旅をしていた従者たちは唖然としてそこに立っていた。《彼らは声は聞いたが、誰も見えなかった》。サウロは地から立ち上がった。しかし目は開かなかった。彼はものが見えなかった。彼らは彼の手を引いてダマスコに連れていった。彼は三日間目が見えず、飲食しなかった」(行伝9:1~9、ヘンヒェン訳)。
 この話は、22:3以下、26:1以下でもふれられている。サウロはパウロのへブル語の名。「主の兄弟たち」「道の帰依者」もキリスト者の意味。
 行伝7:58、8:1、3、9:13などは、ユダヤ教徒時代のパウロ(サウロ)が、《エルサレムを舞台に》 キリスト者を迫害し、かつステパノの殉教にも居合わせたと述べている。しかしこれについてはパウロ自身が否定している、「私はユダヤの諸教会には個人的には知られていなかった」 (ガラ1:22)。行伝はルカによって後90年ころ、つまりパウロの活動時期より30年も後に書かれたものだから、 記述内容に食違いがある場合はパウロ自身のものを採用すべきである(ボルンカム「パウロ」)。パウロキリスト者追害の地域は、ユダヤ以外の地、小アジアやシリアが考えられる。
 行伝9章における中心は、3~6節。
 第一に、「天からの光」はキリストの復活の顕現を意味している。復活した方は、墓から出現するのではない。復活した方は「天に挙げられた」(行伝1:9、ロマ8:34) 、復活は即高挙である。それゆえその方の出現も天からの「挙げられた主の顕現」(ミハエリス)である。
 第二に、パウロに顕現した方は「霊の体なるキリスト」である(第一コリ15:44) 。彼は他の箇所でこう言っている、「神はみ子を私に啓示された」(ガラ1:22)「私は主イエスを見たではないか」(第一コリ9:1)。
 第三に、この出来事は「黙示的幻視、幻聴」の出来事であった。「サウロと一緒に旅してきた従者たちは、唖然としてそこに立っていた。《声は聞いたが、誰も見なかった》」(行伝9:7) 、「連れの者たちは《光は見たが私に話された方の声は聞こえなかった》」(同22:9)。「従者たち(目撃証人ら)はこの啓示に関与することを許されてていない。『声は聞いたが光は見なかった』『光は見たが声は聞かなかった』。そうだとすれば、言表の意味ではなく、表現方法が変わったことになる」(ヘンヒェンの注解)。その現場に同時に居合わせて、一方は「見聞きした」のに、他方は「そうでない」、このような現象は「黙示的幻視、幻聴」(Vision)と名づけられる。
 これは精神病的疾患のある者が「健常者が見聞きしないこと」を「見聞きしたと思い込むつまり精神病的幻視幻聴」ではなく、宗教学的概念での「Vision」(オットー「聖なるもの」)。パウロは第二コリント12章で「ヘレニズム的幻・オプタシア」について語っているが、ここはそれとは違って、彼自身がいう「啓示・アポカルプシス」である(ガラ1:22)。行伝26:19ではこの顕現を「天からの幻・オプタシア」と呼んでいる。「Vision」の訳語は難しいが、一応「黙示的幻視」とした。この「Vision」こそ復活顕現の重要な特徴であり、けして実在しないものの「デッチあげではない。
 第四に、パウロへの復活顕現の理由はこう述べられている、「私があなたに現われたのは、あなたが見たこと、あなたに示されたことの証人とするためである。すなわちあなたをこの民と異邦人(の迫害)から救い出し、彼らにあなたを遣わして、彼らの目を開けて彼らが暗黒から光へ、サタンの力から神へと立ち帰り、私への信仰をとおして、罪の赦しと清められた人々の間で分け前[神の恵み]を受けるためである」(行伝26:16以下ヘンヒェン訳)。