建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅴー復活の史実性の問題性-5 マグダラのマリアへの顕現

マグダラのマリアへの復活顕現
 ヨハネ伝は、復活のキリストが最初に現われたのは、ペテロではなく、マグダラのマリアであったと述べている。マタイ二八・一以下、マルコ一六章の追補部分でもそう述べている。この立場は、復活のキリストが最初にケパ・ペテロに現われたとの、原始教会の復活伝承(第一コリント一五・三以下)とは鋭く対立している。この復活伝承を根拠にしてその伝承にマグダラのマリアの名が出ていないから、マリアへの顕現も疑わしいとの見解も一九六〇年代には存在したが、最近では聞かれなくなった。
 ヨハネ二〇・一三~一七「[墓の中の]み使いらがマリアに言った『婦人よ、なぜ泣いているのか』。マリアは答えた『人々が私の主を取っていきました。彼らがあの方をどこに置いたのかわかりません』。こう言った後に、彼女は後を振り向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかしそれがイエスだと彼女は《気づかなかった》。イエスは言われた『婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を探しているのか』。マリアは《それが園丁だと思って》言った『もしあなたがあの方を取っていったのでしたら、どこに置いたのか私に言ってください。私が引き取りたいのです』。そこでイエスは言われた『マリアよ(マリアムよ)』。彼女は振り向いて、ヘブル語で『ラブニ』すなわち『師よ』と言った。[一七節]イエスは言われた『私にさわってはならない。私はまだ父のもとにのぼっていないのだから。私の兄弟たちのもとに行って彼らに言いなさい『私は私の父、(すなわち)あなたがたの父、私の神、すなわちあなたがたの神のもとにのぼる』と」(シュナッケンブルク訳)。
 イエスの墓が空虚であったのは「自分の栽培していた野菜がイエスの墓詣での人々によって踏み荒らされたので、園丁ユダがイエスの遺体を別の場所に移動したからだ」との当時のユダヤ教徒らの主張が、一五節の「マリアはその人が園丁だと思った」の背景にはある。園丁が自分の栽培してる野菜がイエスの墓詣での人々に踏み荒らされたため、イエスの亡骸を移動したとの《ユダヤ教の側からの、空虚な墓への歪曲的説明》がなされた。これについては後二〇〇年ころテリトリアヌスが言及している(カンペンハウゼン、前掲書)。一五節ではそれがふまえられている。三つのポイントを取り上げたい。
 第一のポイントは、マリアがどのようにして復活のイエスを認知したかである。彼女は墓の外に立っているイエスを「見たがそれがイエスだとは気づかなかった」(二〇・一四)。このポイントはエマオの弟子たちの場合にも出てきている(ルカ二四章)。そこでは復活のイエスが弟子たちの前でパンを裂いた時、それまでくらまされていた彼らの日が開かれたとある。イエスがパンを裂く姿が復活のイエスの認知を可能にしたのだ。ここでの眼目は、イエスがなされた「マリアム」(マリアより古い呼び方)との呼びかけである(ブルトマン、注解)。「羊は羊飼いの声を聞きわける。羊飼いは自分の羊を知つていて、自分の羊の名を呼ぶ。羊はその声を聞くと、羊飼いだとわかる」(ヨハネ一〇・三)。マリアの場合も、イエスの呼びかけによって、呪縛が解けて、その方がイエスであるとわかった。それで「ラブニ、師よ」と応答した(一六節)。
 しかしながら「わが師よ」とのイエスへの応答は、マリアがイエスを墓からまいもどった存在と《誤解していて、復活した方としていまだに認識していなかった》と解釈できる。マリアが欲したのは、友が、もどってきた自分の友にするように、走り寄ってかつての《師を抱き締める》こと、かっての師イエスとの身体的な接触であった(ブルトマンの注解)。マタイ二八・九にはこうある「見よ、イエスがマリアらに出会って言われた『ごきげんよう』。マリアらは《進みよってイエスの足をだいて接吻した》」(ローマイヤー訳、古代においては「足をだいて接吻する」は相手に対する敬意や帰依を示す行為)。ヨハネ伝の場合も、マリアによる同じような行動が前提とされているとみてよい。だとすれば《マリアはすでにイエスにしがみついていた、抱きついていたか、そうしようとしてた》と想定できる(シュナッケンブルクの注解)。このポイントは一七節をどう解釈するかと関連してくる。
 第二のポイントは一七節の解釈である。この箇所の解釈は論争の的になっている。翻訳も二つに別れている。
 第一の翻訳、「私にさわるな。私はまだ私の父のもとにのぼっていないのだから」と訳す(ルター訳)。この翻訳では、 マリアはイエスにさわってはいなかったし、またさわってもいけない。あるいはイ
エスは今後さわることができない状態にある。あるいは復活した方はさわることが許されない状態にあると考えられている(ルターなど)。原語の「デ」を前半を根拠づける接続詞「なぜなら…だからである」と訳す。
 第二の翻訳、「私にしがみつかないでほしい。私は実際まだ父のもとにあげられてはいないのだ」。この翻訳によれば「私にさわるな」は「現にさわっている」状態を終らせるもの。バレットの訳「私にさわるのをやめなさい。実際私はまだ父のもとに上げられていない。私はちょうどそうしようとしているところだ」(注解)。バレットは原語「デ」を強調の副詞「本当に、実際」と訳す。
 このシーンではマタイ二八・九以下の変化した形態が見て取れるのであるから、ヨハネによれば「マリアは主をつかんだ」と推定できる。イエスについては「ふれることができる方」と想定されている。イエスはマリアによってほかでもなく園丁と取り違えられたからだ(一五節)。しかし決定的な問いは、意図的な接触、あるいはすでになされた接触が回避されるべきかどうかではけしてなく、むしろ「[ラテン語訳]訳]ノーリ・メ・タンゲーレ・我にさわるな」との謎に満ちた根拠づけ「私はまだ父のもとにのぼっていないのだから」がどのような意味をもつのか、である。
 ヨハネの場合に初めて、復活は父のもとへとのぼって行って栄光を受けることで完成するとみなされた。しかしヨハネはこの《のぼっていくこと・昇天》をこれ以上は述べていない。マリアはのぼっていく途上の主イエスに出会い、この昇天を他の者に証言するよう委託を受けたのである(参照。行伝一・八~九)。マリアへの顕現は《途上における顕現》である。これと違って、弟子たちへの復活顕現は《昇天後の降下》として表現されている。
 他方、それでは「いつイエスは父のもとにのぼられたのか」を問うとすれば、ミハエリスは、マリアによる空虚な墓についての報告「私は主を見ました」(一八節)とイエスの弟子たちへの顕現「週の初めの日の夜、イエスは部屋に入ってきて真ん中に進みでて弟子たちに言われた『平安あれ』」(一九節)との間に、イエスは父のもとにのぼられた、とみる。C・K・バレットはこの一七節と弟子たちへの聖霊の授与「イエスは弟子たちに息を吹きかけて言われた『聖霊を受けよ、…』」(二二節)との間に昇天が起きたと解釈している。しかしイエスがいつ父のもとにのぼられたかという問いが《イエスの降下の後には身体的な接触が可能となる》との根拠とされる仕方で、この問いが重視されるならばその問いもその回答も疑わしいものとなる。ヨハネ自身がこの試みをしていないからだ。
 第三のポイント。ヨハネ二〇・一七の強調点はイエスがまずもって父のもとにいかねばならないという点にではなく、むしろ「イエスが父のもとへ行って救いの手だてを実現なさるという点にある」。マリアへの委託「私の兄弟たちに言いなさい、私は私の父あなたがたの父のもとに行く」(一七節後半)は、弟子たちと同時に読者にも語っている。一三~一六章にわたる告別説教において、一四・二ではイエスは彼らに場所を用意するためにいく、と約束された。一四・三ではイエスは彼らのもとに再びもどってきて、彼らを自分のみもとに呼び集めると約束された「行って場所の用意ができたら、もどってきて、あなたがたを私のところに連れていく、私のおるところにあなたがたもおるためである」。この箇所の、イエスがもどってくることを終末論的、聖霊論的に理解するならば、復活祭の出来事のポイントは、イエスが父のもとにのぼったことをとおして準備を仕上げた方、特別の全権をもって準備をなし終えた方として弟子たちのもとにもどってくるという点である。一六・七「私がのぼって行かなければ、パラクレートス(弁護者、助け主)は来ないが、私が父のもとに行けば、私がパラクレートスを遺わす」と約束なさった、御霊を《主イエスはのぼった後には》自ら与えられる。二〇・二二「イエスは彼らに息を吹きかけて言われた、聖霊を受けよ」。そう理解すれば、マリアへの委託は弟子たちに聖霊授与の準備をせよとの委託としてそれを待望させる約束(一六・七)として理解できよう。
 弟子たちとトマスへの顕現は、天的な栄光へと挙げられた主を(共観福音書の場合と同じように)再び地上的な境遇にまいもどり、弟子たちに教え、自分の体にふれるように要請した方として述べているが、この点を、グラースはいずれも何か驚くべき《再受肉・リインカーナチオン》であると解釈している。しかしその解釈は妥当なものであろうか。
 ブルトマンの「注解」を手がかりにしてポイントを二つにしぼりたい。
 第一に、ブルトマンはいう。復活した方のリアルな地上的な出現の奇跡は、しるし一般(三〇節「このほか多くのしるしをイエスは弟子たちの前で行なわれた」)と同様に、相対的な意味しかもっていない。顕現の本来の意味も象徴的なものである。一方ではマリアはイエスを見たとあり(一四節)、他方では彼女は身体的な接触を禁じられている(一七節)のであるから、復活祭の出来事は曖昧さと矛盾をかかえているといえる(とブルトマンはいう)。マリアへの顕現でヨハネが語ろうとしたのは、真実の復活祭信仰はヨハネによれば「イエスが父のもとにのぼること」(一七節後半)を信じること、十字架のつまづきを持ちこたえること、にある。したがって、この信仰は復活した方がこの世的な仕方で出現したことへの信仰ではない(とブルトマンはいう)。ヨハネにとって象徴的な意味をもっているのは、復活祭の出来事ばかりではない。《イエスの復活自体ももはやけして重要な意味をもってはいない。というのは、十字架上のイエスの死自体がヨハネにとってイエスの高挙と栄化であるからだ。復活の出来事は基本的には無用のものであり、また人間の弱さゆえに容認されているにすぎない》。ブルトマンによれば、ヨハネの復活記事は結局「すべてが成就した」十字架の出来事(一九・三〇)への付加物でしかないことになる。
 当然のことながら、これに対してはグラースはこう批判している。
 二〇・一七以下が伝統的な復活祭の出来事への明白な批判を含んでいるはずだとの、ブルトマンの説明は、けしてありそうもない。ヨハネにとって、復活祭の出来事、復活祭一般が単に象徴的な意味しかもたず、どうでもいいものであったはずだとの、ブルトマンの見解は、ありそうもない。ヨハネ自身が、ブルトマンが理解していたように、復活祭を精神主義的に象徴的に考えていたとは思わない(「復活祭の出来事と復活祭の報告」)。むろんこの批判は当っている。
 ヨハネ伝の復活の出来事の特徴は、マリアに命じられた弟子たちへの委託の内容にある。「ガリラヤで復活のイエスに会える」(マタイ二八・一〇、マルコ一六・七)との告知を弟子たちに伝えよとの指示とは違って、ヨハネ二〇・一七の、復活のイエスが父のもとにのぼっていかれる、昇天にある。この復活祭の出来事は、復活と天にのぼっていったこと、み霊の授与・聖霊降臨とが緊密に結びつけられている。復活した方は父のもとにのぼったのちに、弟子たちのもとにもどってきて、み霊を与えられる。すなわちヨハネの復活の出来事は、長い長い告別説教(一三・三一~一六・三二)で預言なされた事柄の成就の意味ももっている。だから無用のものとか単なる象徴とは、とても解釈できない。
 第二に、復活したイエスとの身体的接触について。
 ヨハネ二〇・一七「私にさわってはならない」は、復活のイエスとの《身体的な接触という体験一般》 への明白な批判である。このブルトマンの指摘は当っていると私たちは考える。しかしこの言葉の意味内容はけして自明ではない。(一)この言葉は一七節後半、イエスがまだ父のもとに上げられていないからを根拠にすれば、イエスの《昇天の後にはイエスとの接触は可能であり許されてもいると示唆されているとも考えられる。しかしこの解釈をブルトマンは歪曲だと批判した》。(二)昇天の後の、イエスへの肉体的な接触について、グラースは「再受肉・リインカーナチオン」と解釈している。これでは復活のイエスの身体性はある時には目撃されたり(一四節)ある時には身体的接触を禁じられたりで(一七節)「玉虫色だ」(ブルトマン)ということになる。またグラースの見解「再受肉」の聖書的根拠もあいまいである。ブルトマンによれば、『私は《もどって来て》あなたがたを私のもとに連れていく』(一四・三) 『私は父のもとに行くが、すぐにもどって来る』(一八・二三)における「来る、もどって来る」は、親密な身体的な接触が起こるような 《地上的な存在様式での帰還ではない。復活した方と弟子たちとの交流は、けして地上的な形のものではない》。これはグラースの「再受肉説」への批判と解釈できる。イエスと弟子たちとの再度の、新しい結びつきは、イエスが再度の、父との結びつきが実現されてはじめて、可能となる(ライトフット、バレットの「注解」から)。イエスの復活は、イエスと弟子たちとの新しい緊密な結びつきを可能にしたが、しかしながら《かっての身体的な接触は、復活した方にはふさわしいもの、見合ったものではない。復活した方は一般にふれることはできない》。このポイントをルターもブルトマンも強調したが、この主張は正しい。言い換えると、キリスト者にとって、復活のイエスとの交流は「復活顕現を媒介としない、復活のイエスの身体的な接触を媒介しない交流」、イエスが遺わされる、パラクレートス・助け主(一六・七)、「聖霊」(二〇・二二)を媒介とした交流となるのである。私たちはこのように解釈する。

 最後にイエスのこの 「私にさわるな」 の言葉がマリアにどのような反応を呼び起こしたかについての、モルトマン・ヴェンデルの解釈に言及したい。
 「死なんとしている、死んだ体、埋葬され、香油をぬられた《イエスの体》がマグダラのマリアらをイエスと結びつけている。マリアらが復活の朝墓に来てイエスの体をもはや見い出さなくなった時初めて《凍るような戦慄が始まる》。イエスに対するこの特別の、人間的な、人格的な関わりによってのみ、マグダラのマリアと復活した方との出会いを理解できると私は考える。…イエスが『マリアよ』と彼女の名を呼んだ時初めて、マリアはイエスをそれと認知して『わが師よ』と応答する。ここまではすべてがわかりやすく、明白である。しかしそこに親しみにくい、冷やかで拒否する文章『私にすがりついてはならない。私はまだ父のもとに上っていないのだ』(一七節)が語られるにおよんで、再びもどってきた幸福感すべてをこわしてしまう。…私たちはこの言葉が引き起こすショックを消し去ることができない。それはもはや優しく身近なイエスではない。イエスの体にすがりつくことも、香油をぬることもできない。人はその体を取りもどすことも、しっかりとつかまえておくこともできない。マグダラのマリアはもはや思いのまま抱き締めることもゆるされない。女性たちが欲する《連続性は切断されている》。幼な子のような信仰と信頼の素朴さは死滅する。…マグダラのマリヤは救いをまさしく身体的なもののように経験した。彼女は人格的にイエスを愛していた。イエスなしには彼女の人生は生きることのできないものと思われた。彼女はねばり強さと耐久力を持っていた。イエスを疑ったことは一度もなかった。しかし今や、彼女はイエスにしがみつき出した。死んだメシアがではなく、まさしく《イエスの失われてしまった体》(der verloren gegangene Leib Jesu) がマリアを絶望に陥入れる》のだ。ここに至って彼女は死、自分の実存の断絶を体験する。『私にすがりついてはいけない』を私はこう翻訳したい。円熟した者になりなさい。おとなになりなさい。別離の痛みを受け入れなさい。…先のヨハネ伝の言葉はこう言っている《あなたがたが継続性を求めているものが、死である。あなたがたが自己を変えるところが、生命である》(モルトマン・ヴェンデル「イエスをめぐる女性たち」)。
 モルトマン・ヴェンデルの「私にさわるな」の解釈(引用の終りの部分)は、そのままでは受け入れ難い。しかし他方では、復活のイエスの存在がかっての《地上のイエスとは異質である》こと「イエスの失われてしまった体がマリアを絶望に陥れる」との解釈は、 このマリアへの顕現記事のポイントをずばり把握しているといえる。