建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

囚われ人の希望(12)「石の下の詩と真実」

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17) 囚われ人の希望(12)「石の下の詩と真実」 この数年の間に「囚われ人の希望」の形のうちで、ひときわリアルに感じだしてきたものがある。それはソルジェニーツインが「収容所群島」の第五章で述べている「石の下…

囚われ人の希望(11) 神義論

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17) 囚われ人の希望(11)神義論 神義論とは、正しい者が不当な苦しみを受けたり、この世で悪人が栄える事実を根拠にして、神の世界支配に疑問をいだき、神の支配が正しいかどうかについて論議することをいう。西欧で…

囚われ人の希望(10) 苦しみの克服

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17) 囚われ人の希望(10)苦しみの克服 フランクルはこう述べている「囚人が現在の生活の《いかに生きるか》すなわち強制収容所の生活のすさまじさに内面的に抵抗して身を支えるためには、囚人に《なぜ生きるか》その…

囚われ人の希望(9) 期待の問題点

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17) 囚われ人の希望(9) 期待の問題点 「奴隷の無関心さは、囚われ人の実存が《終末論的》であること(キリストの来臨とか特別の将来に規定されること、ここでは自分たちの帰郷の日に規定されること)と関連している。…

囚われ人の希望(8)  諦めの人生と将来の喪失

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17) 囚われ人の希望(8)諦めの人生 諦めの人生は、パスカルが明らかにしたように、苦境にある自分の苦しみを絶えずしずめ、自分で気晴らしをしなければならない。現実には慰めを得られないものの、現在のもの、はかな…

囚われ人の希望(7) 現在と将来

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17) 囚われ人の希望(7) 現在と将来 捕虜においては、自分たちがいつ解放されるか不確定でわかっていなかった。 ゴルヴィッツアーは述べている 「奴隷の無関心さは、囚われ人の実存が(終末論的)であること(キリストの…

囚われ人の希望(6) 善意と愛

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17) 囚われ人の希望(6) 善意と愛 ドストエフスキーは、西シベリアのオムスクの牢獄に他の囚人と護送される途中、トボリスクの町で、デカプリストの妻たち四人の慰問を受けた(一八五〇年一月)。デカプリストとは一八…

囚われ人の希望(5) 大自然の慰め

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17) 囚われ人の希望(5) 大自然の慰め 視点を変えると、イルトウィシ河岸でのドストエフスキーの体験は大自然が囚われ人の苦しみを慰める体験と呼ぶことができる。フランクルはアウシュヴィッツ強制収容所における夕景…

囚われ人の希望(4) 孤独への憧憬

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17) 囚われ人の希望(4) 孤独への憧憬 ドイツの神学者ボンヘツファーはこう語った「私たちは交わりの中にいることにおいてのみ、一人でいることができる。一人でいる者だけが、交わりの中に生きていくことができる」(…

囚われ人の希望(3) 強制労働ー2

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17) 囚われ人の希望(3) 強制労働ー2 さてドイツの神学者へルムート・ゴルヴィッアー(一九〇八~九三)は、ドイツ教会闘争の闘士マルチン・ニーメラー牧師がナチス・ドイツに抵抗して逮捕、拘束された後、ベルリンの…

囚われ人の希望(3) 強制労働ー1

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17) 囚われ人の希望(3) 強制労働ー1 ドストエフスーは「心をこめた過度の仕事、これこそ一番の幸福です」と拘置所から兄宛の手紙に書いた。石川啄木も「こころよく我に働く仕事あれそれを仕遂げて死なんと思ふ」と歌…

囚われ人の希望(2)ー空想

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17) 囚われ人の希望(2)ー空想 ドストエフスキーは囚われ人と牢獄の外にいる自由な人とでは、現実の生活に占める《空想、希望》の重みが全く異なるという(「死の家の記録」一八六二、小沼文彦訳、この作品は周知のよう…

希望について前書、囚われ人の希望(1)

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17) 希望について前書き 希望について書き始めたのは、一九八〇年のこと、二〇年前である。第一章は「囚われ人の希望」について。希望について考える場合、いくつかのふまえるべきテーマがある。 第一に、希望の中身とし…

キリストと共に(五)(六)

2000講壇5(2000/10/28~2000/12/3) キリストと共に(五) 「私が切望しているのは、(世を)発ち去って、キリストと共にいることである。そのほうがはるかによいからだ」。 「世を発ち去る・アナルオー」は、死、旅立ち、を意味しているが、停泊した…

キリストと共に(三)(四)

2000講壇5(2000/10/28~2000/12/3) キリストと共に(三) ピリピ一:二一 「キリストにある新しい被造物」(第二コリ五:一七)ガラ二:二〇「私を愛し私のためにご自身を渡したもう神の子を信じる信仰にある生」など。しかし他方バルトはこことの関…

キリストと共に(一)(二) ピリピ1:20~

2000講壇5(2000/10/28~2000/12/3) キリストと共に(一) ピリピ一:二〇「私の渇望している希望は、自分が決して恥を受けることではなく、むしろいつもそうなったようにまさしく今もまた、[私の]生をとおしてであれ死をとおしてであれ、私の体でも…

キリスト者の復活(五) 藤井武(4)

キリスト者の復活(五) 藤井武の来世研究(4) キリスト者は死後どうなるか、これについて新約聖書は二つの箇所で語っているとみた。一つは、ルカ二三:四三、もう一つはピリピ一:二一以下だと。 ルカ二三:三九以下、イエスの両脇ではりつけにされた罪人…

キリスト者の復活(四) 藤井武(3)

キリスト者の復活(四) 藤井武の来世研究(3) 「《死よ、いつにても襲いきたれ、私は汝の背後に私の最も慕う所のものを見るがゆえに、すべて汝の刺[とげ]に耐えることができる》。しかしながら聖書が我らにもたらす嘉信はこれに止まらない。もし歓喜にみ…

キリスト者の復活(三) 藤井武(2)

キリスト者の復活(三) 藤井武の来世研究(2) 「[第一コリント一五:四四]ここにパウロはキリスト者の受くべき未来の身体が現在の肉体と全く性質を異にするものである事を明らかにせんと欲して、…豊かなる類例を提供せしめ、しかる後に力強き結語を下し…

キリスト者の復活(二)

2000講壇4(2000/8/27~2000/10/28) キリスト者の復活(二) 藤井武の来世研究(1) 藤井武(一八八八~一九三〇)は無教会主義者、内村鑑三の弟子。四年の役人生活をやめて後、内村の助手となり、一九二〇・大正九年に独立、「旧約と新約」誌発行。…

キリスト者の復活(一)

2000講壇4(2000/8/27~2000/10/28) キリスト者の復活(一) 内村鑑三の場合 キリスト者は「使徒信条」の祈りのたびに、最後のくだり「我は、体のよみがえり、永遠の生命を信ず」と祈ってきた。そして漠然とではあっても「自分たちの生命は死によって…

キリスト者の死(二)

2000講壇3(2000/7/30~2000/8/20) キリスト者の死(二) キリスト者の過去における死 パウロは、キリスト者が生前すでに自分の死「礼典的な死」を体験しているという。 「キリスト・イエスへと洗礼された私たちはみなキリストの死へと洗礼されたのだ。…

キリスト者の死 (一)

2000講壇3(2000/7/30~2000/8/20) キリスト者の死 (一) 旧約聖書のイザヤ三八:一八以下のヒゼキヤの祈りでは、死者が神との絆が断ち切られているとみている 「陰府はあなたを讃美せず、死はあなたをほめたたえない。墓にくだる者はあなたの真実を待ち…

イエスの十字架と絶望(七)

1999講壇3(1999/11/14~1999/12/26) イエスの十字架と絶望(七)ピラトの審問 もし私の国(支配)がこの世のものであったら捕縛の時にも、私をユダヤ人に渡さないために私の手下がこの世的な手段・武器をもって反抗したはずである(ヨハネ一八:三六)…

イエスの十字架と絶望(六)

1999講壇3 (1999/11/14~1999/12/26) イエスの十字架と絶望(六) ピラトの審問 サンヘドリン・最高法院は、確かにイエスがご自分をメシアだと告白されたゆえに、イエスに瀆神罪で死刑判決を出した(マタイ二六:六六)。しかし彼らはたとえ瀆神罪など…

イエスの十字架と絶望(五)

1999講壇3(1999/11/14~1999/12/26 ) イエスの十字架と絶望(五) 最高法院での審問 話が相前後するが、最高法院での審問、ピラトの審問を取り上げたい。 「人々はイエスを捕らえて、大祭司カヤパのもとに引いていった。そこには律法学者、長老たちが集…

イエスの十字架と絶望(四)

1999講壇3(1999/11/14~1999/12/26) 十字架上の叫び それゆえ十字架のイエスの叫びのもつ「絶望、神に見捨てられること」要素は決して除去されても薄められてもならない。 第三に、イエスの叫びを父なる神と御子・子なる神との壮絶なやりとりとみる解釈…

イエスの十字架と絶望(三)

1999講壇3 ( 1999/11/14~1999/12/26) イエスの十字架と絶望(三) 十字架上の叫び このへプル二・九の読み方は「カリス・テウー・神の恵みで」(「キリストは神の恵みで私たちすべてのために死を味わわれた」)とハルナックらの「コーリス・テウー・神…

イエスの十字架と絶望(一)&(二)

1999講壇3(1999/11/14~1999/12/26) イエスの十字架と絶望(一)&(二) ゲッセマネの夜 「やがて彼らはゲッセマネと呼ばれる場所に来た。イエスは弟子たちに言われた『私が祈り終るまで、ここで坐っていなさい』。そしてイエスはべテロとヤコブとヨハ…

病人の希望(三)

1999講壇2(1999/10/31~1999/11/14) 病人の希望(三) 彼女の次の行動「群衆の中で(交じって)」は、先のレビ記の箇所をふまえると、自分が交わりを締め出されている、人中に出た彼女の必死の大胆な行動である。 「後からイエスの衣に触った」は、彼…